本当の「場の状況判断」

毎日、その教室で「麻雀の勉強」ができる、と思っていた。


そんな日が永遠に続き、日々「深く麻雀」を知ることができると。


粉雪が舞う季節。


サンタクロースの気配がする。


緑と白、赤に彩られた街を駆け抜け、教室のドアを開ける。


時刻は21時30分


その教室は、23時には、終了する。


そのことは我々もよく理解をして、わかっている。


その夜は、勉強会対局と称して、時間制限なしの対局。


卓につくことができた私は、観戦者を後ろに、


全身全霊をかけて牌に魂を刻む。


他家の親番を捌くことができずに、時間がかかりすぎている南2局。


わたしの親番。


わたしにとってはクライマックスだ。


時刻は、23時30分。


親番で連荘を重ねている私に、後ろからひろりん先生の声がする。


「その、局で終わりにしなさい。」


「教室にも迷惑がかかっている。」


対局に没入していた私は、


「最後まで打たせてください」


と、語気を荒げて返す。


自分にとっては、一期一会の大切な対局。


教室は麻雀を勉強する、そのための場所。


何を言われているのか、わからなかった。


「対局を中断」だなんて、考えられない。


「麻雀への想い」が交錯する。


思いのたけをすべてぶつける。


目の前の対局がなによりも大切だ、と。


わたしの「教室での麻雀」は年を越すことはなかった。


その時を最後に、私は、ひろりん先生から「麻雀を学ぶ機会」を永遠に失った。


紆余曲折あれど、「学ぶ機会」は失った。


それは、あまりにも突然だった。


現在なら、ひろりん先生の言っていることがよくわかる。


一番大切なことが、「周囲への配慮」だ、ということ。


例えば、時間が押し迫っている同卓者がいるなら、


自分が勝ちたいから、といって、打ちたいからといって、


むやみに積み棒を重ねるものではない。


「配慮しなければならない周囲」も含めて、その麻雀の場の状況判断だ。


現在の部室でも時間が下がれば、私は親のテンパイも「ノーテン伏せ」する。


これは、「麻雀」について「失礼」な事柄ではない。


「周囲への配慮」ができないことのほうが、「麻雀に対して失礼」だ。


失ったものは大きかったけれど、この「広義な場の状況判断」は現在でも大切にしている。


まあ、大切にしていて、このありさまなのだけれど。


現在、相手にこの話をしても伝わる状況なのか?どうか?


麻雀を勉強できる環境なのか、どうか?


何が、目的なのか?


考察に矛盾はないか?


目まぐるしく変化する状況に対して、冷静に


自分がどうしたいではなく、どうするべきか?を選定してゆく。


そういう習慣を持つことが、「麻雀をたいせつにする」ということなのだ、と思う。





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