祈り

「あなたが、麻雀を大切にしていたなら、あなたの周りには、


 あなたと同じ気持ちのひとが、必ず集まる。」


25年前にそう言われて、その言葉を信じて、自分なりに重ねてきた。


いつか、自分が麻雀を続けてきてよかった、と思える、そういう麻雀を打てる。


自分より遥かに温度のある、そういう仲間が集まるのだろう、と。




場に発しか落ちていない7巡目に、西が切られる。


大三元と、四喜役に気づいていない打牌だ。


それでも、「場への字牌の高さを意識できてしまっている自分」は字牌に敬意を払う。


三元役を軸に組んでいる自分の手牌にある、東、と南。


南が重なったので、東を放つ。


四喜役を軸に組んでいる相手には、単騎でない限りこの東は通る。


ゲームが壊れないことを、「字牌がこれ以上安易に切り出されないことを祈る。」




国士テンパイ。


このままでは、ダマでこぼれてしまう。


国士に気づいてもらう必要がある。


リーチを打つ。


「頼むからでないでくれ、と祈る。」




マンズでのぴくつき。リーチが入る。


「マンズ待ち以外であってほしい、と祈る。」



自分は、いつもいつも祈ってばかりだ。


そして、ついに現在は自分の麻雀への情熱が消えてしまわないことを、


「祈っている。」


こんな気持ちで、卓につくことは同卓者に対して失礼だ。


みな、それぞれの精一杯を持ち寄ってくれているはずなのに、


自分の納得のいくステージであることを、勝手に祈っている自分に絶望する。


それぞれにそれぞれの麻雀があるはずなのに、


自分はもう、それを大切にできなくなってきている。


「もう、打ちたくない。」


こういう気持ちでいること。


他人に勝手に期待して、勝手に絶望していること。


25年を費やしたこと。


きっとこの先も絶望しかないこと。



全身全霊をかけて挑めない対局なら、卓についてはいけない。


同卓者に敬意を払えないのであれば、卓についてはいけない。


それは、麻雀に対する最大の冒涜だから。



麻雀は好きだ。


誰と打っていても、そこに牌はあるから、牌の理に身をゆだねることは、嫌じゃない。


だけど、他人に期待している身勝手な自分が嫌だ。


ステージが違うと、心のどこかで見限っている自分も嫌だ。


そういう自分の麻雀が嫌だ。




麻雀が好きだ。


だから、もう現在、自分は麻雀は打ちたくない。



麻雀の素晴らしさを共有すること。


その目的のために、麻雀は打ちたくないけれど、それでも麻雀のほとりにはいる。


自分が身勝手に望んでいるものは、そこには存在しないけれど、


楽しそうに麻雀を打っている景色は、嫌いではない。


よい麻雀を打つために、集まってくれたひとのために、


「よい麻雀が打てる可能性がある場所」を残したい。





目を閉じて、いつも脳内で麻雀を打つ。


4人とも自分なのだけど、自分の知りうる最高のメンツを想定して、脳内で卓を組む。


ドラ2mが2枚ある手組。


「字牌の対子を離して、タンヤオに向かう」


この選択ができない。


手牌が短くなること。


受けの字牌を2枚離してしまうこと。


怖くて、仕掛けられない。


誰もリーチを打たず、逡巡のない打牌が続く。


打牌のリズムに情報は落ちない。




そういう対局を望み続けている。



そして、今回の人生では間に合わなかった可能性が高いけれど、


自分と同じくらいの温度を持ったひとと出会えることを、


まだ、それでも諦めきれずに期待している。






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