大晦日

自分は、理屈ではなく「牌を信じて」戦ってきた。
力不足を「牌の後先」をはかることで補ってきた。
「その牌は、何をする目的でここに来たのか?」そのことを大切に打ってきた。
いつしか理屈だけで勝てることを覚えて、忘れていた感覚だ。
自分がどうするべきか?は、「牌に訊ねる」。
狭量な理屈が介在しない「広い麻雀」だ。
卓につくなり、楽しくなってきた。
しかも自分は、この数年「麻雀の勉強」もしている。打てない要素は全くない。
「教えるとか、本当に思い上がっていたよな。自分は麻雀のこと何もわかっていない。」「理屈だけを伝えて、悦に浸っていた。」
懸命さが足りなかった。思い上がっていたのだ。必死に打ってた人間に、勝てるわけがない。

毎局、全てまっすぐ組む。テンパイを最優先、面前では戦える手組、最終形までリーチは打たない。リーチをしてツモる。どうせ読みきられてロン牌がこぼれるなんてあり得ない。

最初の半荘。ぶっちぎりのトップを取ることしか考えていない。 

あがること。ノータイムで全ての可能性を想定。瞬間で処理する。逡巡すれば、思考の風下に落ちる。

仕掛けは、仕掛けさせられてるだけの可能性が強い。
仕掛けは、自分の判断ではなく、「牌に訊ねる」。

34000点持ちの東三局。5巡目。
  789m 789p45789s北北
8pを引いてのテンパイ。
即リーチがマジョリティだろう。
そんなことは、わかっている。
けれど、45789は配牌から動いていない。ソーズの場の状況は、上家が2巡目に4s。下家が2s7sの36s吸収の景色。対面もソーズを集めている。集まっている、というべきか?ソーズは工夫をしないとあがれない。
ここであがるために、3つの可能性を整える。
①4sを引いて北とのシャボリーチ。
②仕掛けが入ってツモ山がズレてからのリーチ。
③そのままリーチ。 
こういうときは、牌に訊ねる。 
場況はソーズはツモレナイと教えてくれてる。ならば、二枚目の北が場に枯れる前にシャボに変化すれば、リーチだろう。①を選択する。7巡目4sを引いてシャボ変化。だが、ここで、もう一度考える。
やはり②の選択に。完全な感覚だけれど、マスターが七対子で3sを2枚。下家が456でおそらく1枚。対面が6sを66789で2枚。あと2枚いる。これを一発でツモって6000オールを目指す。
4sをツモ切り。次巡一発ツモになっていた北を持ってきて、5s単騎を考えるも、36sダマテンを選択。
他家仕掛け。「チー」を待つ。
ドラが打たれ、仕掛けが入りわ上ヅモから、下ツモに変化。7pから切りリーチ。
3sをツモ。裏ドラなし。
4000オール。
即リーチがマジョリティ。
そんなことは、わかっている。
だけど、自分のツモ山にいそうにないと感じていて、なおかつ、全体の捨て牌もソーズはたかい。そんな待ちなのに、「即リーチ打つべき」その選択は「痛みのない作業の理屈」に過ぎない。
今回、3sツモれたけれど、自分のマイノリティーの選択肢は、4s引きのシャボ変化、即リーチだ。
ソーズが取れない。でも、1枚切れの北ならいける。シンプルな選択だ。 
②36s待ちをつもって…というのは、損得勘定。我欲に過ぎない。大切なのは、自分の損得勘定で場をみないことだ。

そのあとも、同様の思考で、面前で組み上げ続けて80000点オーバーの丸Aトップ。 

理屈よりも、場況。
理屈はこうだから、とそれに殉じる、なんて横着はもう二度としない。 こういう理屈はあるけれど、自分はこうします、でよい。
場況ありき。
やるべきことも、方法も、全てそこにある。

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