敗北からしか学べないこと。

予備校のときは、仲間打ちでは強い、と思っていたんだよね。


でも、ピンのフリーで、速攻10万くらい負けた。


最初は、ついてないのだ、と思っていた。


でも、そうじゃなかった。


どうすればいいのか、死ぬ気で考える。


麻雀を辞めるか、頑張るか、2つにひとつ。


料亭のオヤジにぼこぼこにされた。


④のスジを追ってアンコウの①を放すと 


チートイの9600に刺さる。


何もできず、30,000円なくなる。


我慢が足りなかったんじゃないか?


ちょっと、立ち寄ったピン雀で、8万溶ける。


何が、ダメなんだろう。


渋谷のノーレートで、ノートップだった。


あそこの局面は、攻めるべきだったのか?


どんなに負けていても、調子が悪くても記録をつけて


反省をすること、これを続ける。


ノートの厚さが、自信に変わる。 


勝っているときには、決して気づくことのできない


たくさんのことを、敗北は教えてくれる。


後で思い返してみると、過去の日の失敗ばかりが


とても重くよい経験になっている。 


うまくいかない時こそ、本当に自分の麻雀を磨くチャンスなのだ。


嘘じゃない。


上手くいかない時には、その原因は自分にある。


それをツキのせいにすることは、あまりにも哀しい。


失敗こそ、学びのチャンス。


チャンス はどこにでも存在している。


ただ、みんなそれに気が付かないだけなんだよ、きっと。 


 


yjimageVZK5OQRG.jpg



麻雀 ブログランキングへ


nice!(0)  コメント(0) 

ノータイム清一色

Screenshot_20211026-074133.png
麻雀を学ぶうえで、必須な資質。
あくまでも、私見なのだが、「謙虚」「素直」「誠実」。
この3つを兼ね備えている人間は、
とてつもないスピードで成長していく。
自分を守るために、虚勢をはったり、言い訳をしたり、ごまかしたりする人間は、ある一定のところで麻雀の成長はとまる。
もしかしたら、
それは、なにも、
麻雀に限ったことではないのかも知れない。
面前の清一色は、場の色の偏りと手組が合致したときに現れるアガリだ。
上家が、マンズチック。
自分は、タンヤオチュウのカン7
p。
こぼれてきた7pを拾うため、ノリノリで全ツッパだ。
対面が、ノータイムで打牌を重ねている。
おそらくこれは、下家へのマンズを絞っているからだ、と思う。
ノータイムにもほどがある。
例えば、ホンイツであれば、
字牌の選択で必ず一度は逡巡する。
清一色であればなおのことだ。
いくら、先日、逡巡しない清一色は、あがりやすいなんて話をしていたとしても、人間そんなに簡単に
「できるはずがない。」のだ。
清一色しかも親番。万が一にも、しくじることは、できない手組。
よしんば、愚形の清一色のテンパイが入っていたとしても、良形へのテンパイワタリへの確認のため、必ず止まる。ほんのすこしでも、リズムが変わったなら、撤退だ。
そういった、サインが全くないということは、「やるべきこと」が、すでに確定している、ということだ。きっと、下家に絞ることだろう。
対面が、逡巡するまで、気にしないでよい。
だが、この時にもっと、このツモ切りについて、少し考えるべきだった。万が一のテンパイについて。
七対子のテンパイでも、疑っていたなら、このあとの悲劇は起きなかった。もっとちゃんと考えるべきだった。考えなかった。疎かにした。
上家が、ノーテンの可能性が高い現在、私の仕事は、タンヤオチュウをあがることだ。
そればかりを考えていた。
7mを掴む。
これは、現在なら、300%通る牌だ。
「ロン」対面から、謎の声。
24000にささる。
本当に驚いた。
カン7m
「待ちが簡単でよかった。」の
言葉も添えられる。
みくびっていた。
たまたまや、偶然。
うっかりで済ませてよいはずがない。明らかに、自身の人読みに対する過信だ。
対面がやるべきことにしていたことは、おそらく「逡巡しないで打つ」ことだった。
「あがるために、逡巡しないで打つ」ことだった。
24000を払った後。上家に5800を振り込んで、私は星になった。
トビアりルール


nice!(0)  コメント(0) 

夢中

お金が欲しくてフリー麻雀に通っていた。
痛みのない麻雀なんて麻雀じゃない。
命より大事なお金がかかっている。
小銭を追いかけて、赤牌で殴り付け
か細い明日への希望を紡ぐ。
そんな自分に、師匠は麻雀の苦しいけど楽しい、
そういう魅力を教えてくれた。
ゲームではないホントの重さ。
お金を賭けることすら許されない濃度、深度。
「あなたが本気で望むなら、
ワシがあなたにだけ麻雀を教えてあげる」
自分は、きっと本気で望んだのだ、と思う。
本当に本当に知りたかったのだ、と思う。
朝から晩まで麻雀のことばかり。
目を閉じれば、牌が踊る。
麻雀以外のことは、全く考えない半年が過ぎる。
師匠に、「プロになりたい」と相談する。
「もっと強いひとたちと打ちたい」と。
「肩書きがなければ、よい麻雀が打てないのなら
あなたとの付き合いはこれまでだ。」
と一蹴される。
そして、私の名前を呼び、
「あなたが、よい麻雀を打ち続けていれば
あなたの周りは、あなたと同じ気持ちで、
よい麻雀を打ってくれるひとでいっぱいになる。
ワシが約束する。」
あれから、幾星霜。
たくさんの邂逅の果てに、たどり着くべき
答えがほのかにみえる。
自分は、本当に麻雀が好きなのだ。
だから、まわりに麻雀が好きなひとがいてくれる。
師匠の言うとおりだった。
そして、思い知る。自分は
麻雀が好きで仕方なくてたまらない
そういう人たちのことが好きなのだ。
たくさんの麻雀を見させていただいて、
そのひとの麻雀への想いがわかる。
ウソかホントか。どの深度か。
わかりたくなくても、わかってしまうのだ。
愛しいほんとうのかけら。
同卓する度に、いつも思う。
少しは、役に立てているだろうか?
師匠のように、少しは、ほんの少しでも
鏡となるような麻雀が打てているだろうか?
物語はもう幕引きのそばだけれど、ここにきて
灼熱の温度を持った若者たちと出会う。

そうだ。
まさに夢中。
その様子が溜まらなくまぶしい。

人生の全てを麻雀に捧げる。
麻雀を好きな人達に捧げる。
それでよい、と思うようになった。
だって、みんな果てしなく「よい顔」をしている。

nice!(0)  コメント(96)