競技麻雀サークルについて(会員募集)

当ブログ つかぴょんの麻雀パラダイス・ロストに
いつも、足を運んでいただきありがとうございます。
自身の所感を取りとめもなくつづっているだけの記事なのに、
毎回たくさんの閲覧いただき、とても励みになっております。
当ブログ内で、扱っている対局のほとんどは、競技麻雀ルールです。
一発や裏ドラなど、偶然性の高い役が存在しない30,000点以上加点のルール。
麻雀はルールによって楽しみ方も様々で、競技麻雀には、競技麻雀の楽しみ方が存在するし
一発裏には一発裏の、上海なら上海の楽しみ方があります。
コロナ禍、感染拡大防止を思い、サークル活動を自粛してきましたが、
「心配りをしっかりと重ねたなら、
麻雀はコロナの感染拡大の因子とはなりえない」
との判断のもとに
競技麻雀サークル「啓雀会」の活動再開に向けて
参加者の募集をいたします。
コロナの状況を鑑みて慎重に整えたいと思います。
参加を希望される方は、当該ブログコメント欄。
もしくはつかぴょんのツイッターに、
ダイレクトメールにて
連絡をいただければと思います。
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競技麻雀サークル「啓雀会」について。
厳しい対局をのぞまれる方の為のサークルです。
完全上級者用のリーグ戦を中心に、月に一度開催いたします。
参加者の要望にあわせて、オープン戦も実施します。
時間制限のない対局で、ゲーム代金は1分あたりの計算となります。1時間400円目処
30000点以上が加点となる評価方式です。
     1位   2位  3位  4位
Aトップ +16  ▲10 ▲4  ▲2
Bトップ +12  + 4 ▲4  ▲12
Cトップ +10  + 4 +2  ▲16 
評価点は上記のとおりです。
ノーレートです。
自動配牌機能は使用せず、サイコロをふって取り出します。
参加資格
●符計算が淀みなくできること
●点棒の授受など淀みなくできること
●場の状況判断ができること
(著しく不適切な打牌をしないこと)
●牌をこぼさないこと
●遅刻をしないこと
●逡巡のない打牌ができること
●一切の私語の禁止
●対局において紛らわしい行為の禁止
 (ため息、強打、全てペナルティです。)
これらのことが、何の問題もなくこなせること、そのことが参加条件になります。 
 


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捨て牌の濃度 [かふぇ・LUCK!YOU!]

夏の終わり。
久しぶりのフォン-アツギの夜。
このまま帰宅してもよいけれど、「ちょっと美味しいカフィ」を嗜みたくなり、久しぶりに、カフェ「luck!you!」へ向かう。
カクテルグラスで運ばれてくる「ウーロンティー」は、1日の疲れを労ってくれる。
カフェ「luck!you!」のマドンナ、マダムゆうこりんからグラスを受けとる。
淡いグラスのブラウンの向こうに、見慣れないお客さんの顔が見えた。新人さんかな?

南場の深いところ。親番のその新人さんの捨て牌が色濃く特殊で興味を引く。
タンピン系ではない。七対子にもチャンタにも見える厚い河だ。濃い。
「リーチ!」ノータイム発声。萬子の中張牌手出しのリーチ。
こういう親リーチには、自身の手役が勝負攻撃ではない場合には、現物以外は切らないほうがいい。三暗刻とか四暗刻の可能性もぬぐいきれないからだ。異様な捨て牌。南場。親リー。危険な要素ががっつり含まれている。
親番の対面、週末のみタクシードライバーを営んでいる常連の「うっかりもりべえ」が、うっかり親リーチの河に浮かぶ6ソウのスジを頼りに、うっかり9ソウを切る。
命知らずな一打。勝負手だったのだろうか?
うっかりも、うっかりしずきると大変なことになる。
ロンの声がかかる。
一ワンと9ソウのシャボ。
リーチ東の4800点だ。
もりべえは、深海に消えた。
リーチ宣言牌の萬子を手の内に残して、メンホンに向かう選択肢もある。けれど、ノータイムでのリーチだった。逡巡のない外連味のない打牌選択。一発と裏ドラのあるルールだ、ということ。また8巡目という巡目を考慮したならば、ツモって32000オールが見込めるのだから、充分だ。打牌スピードと所作。打ち慣れている、おそらくフリー麻雀の熟達者だな、と感じた。
常連がひとり卓をはずして、店のマダムゆうこりんから、卓入りを薦められる。自分にとっては、1日1半荘が慎ましやかで大味にならなくてよい。
最高のカフェと1半荘。
上家に座る新人さんとの初対局だ。どういう麻雀を打つのか、楽しみだ。

南入りするまで、対局に大きな動きはない。上家も仕掛けはなく、ただその捨て牌は濃くタンピン系+三色、チャンタ系+一通がみえる。
手役を重視している可能性が高い捨て牌だ。自分は下家だから、仕掛けてその仕掛けへの対応をはかる、ということも考えたけれど、せっかくの半荘1回の対局のなかで、1局を捨てて相手の打ち筋を伺うことは、もったいない気がした。対局者の麻雀を伺うよりも、目の前の手牌とやるべきことを大切にしたい。
南1局。北家となる上家の新人さんがはじめて無スジの5ピンを切ってリーチを打った。ピンフ三色?結局和了形を見ることができなかった。
南2局。西家となる上家の新人さんが今度は先制リーチ。七対子もありそうだけれど、三色もありそう。もう何もかもありそう。先ほど観戦していた4800のイメージが強すぎる。
親番を落とした私の手牌も勝負をするに充分に価値のある形。ただ、プカリと4ソウが浮いている。リーチの河にはマンズの4、ピンズの6も飛んでおり、三色もみえる。ただ、数牌が多く飛びすぎている感じはある。七対子の可能性もあるし、最高で四暗刻の可能性まである。じっくり煮詰めた感じのする10巡目のリーチだ。新人さんが面前重視で最終形を求めて組んでいるのであれば、どう転んでも8000点くらいまでありそうだ。考えだすとキリがない。勝負をするのであれば、まだ修正できる局数の残っている南二局、そう、今しかない。
よくわからないものに怯えて「自分で自分のチャンスを潰すこと」だけは、やっていない。4ソウを切ってリーチ。「ロン!」用意されていたかのように振り込むことになる。
リーチ、役牌、裏ドラ1枚。一手代わりでの三色を孕んだ13枚に私の4ソウが吸い込まれる。
「手変りを待たないで即リー」。必ずしも最高形を最終形として目指しているわけではないのか?
確かに、三色の変化を待って、三色目のテンパイを組めたとしても、高目低目のあるテンパイにしかならない。フリテンリーチを打つ必要があるわけではない局面なので、即リーは理にかなっている。私なら即リーを打つ。
 やはり、面前麻雀は、手役の可能性がたくさんありすぎて読みきれない。仕掛けないでいることで、確定情報が落ちにくく、選択肢をたくさん持つことができる。
そして、何よりも一発裏ドラルールの最大のメリットとして、リーチを打つことができる。
 いただいたカクテルウーロンティーの氷も溶ける頃、対局は終わる。
 面前麻雀には、面前麻雀で戦いたい、相手の土俵で戦いたい、とそう思わされる対局だった。手牌を熟成させている感じが、悪くない。大切に育んでいる感じがよ悪くない。濃い捨て牌は想いが込もっていて悪くない。

 そよぐ夜風に秋の気配を感じながら、やっぱり、いろんな人と麻雀を打ちたいな、と思う。
他人の麻雀を考えることは、楽しい。
 1000人いれば、1000種類の麻雀があるわけだから。そう考えると、やはりどこまでも、麻雀の未来に楽しみは尽きない。

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感性に添う麻雀

よい麻雀を打ちたい。
よい麻雀とは、美しい麻雀を打つことではない。
研鑽を戦わせて死力を尽くして戦うことだ。
精一杯、という言葉が介在しないくらい
精一杯戦うことなのだ。
私は、舞踏会に興味はない。
リングで殴り合いをしたいのだ。

ポーカーで殴られ過ぎて、我慢が効かなくなっている。この日の対局を振り返り、修正するのではなく、開発していこう、と思った。ブレーキが壊れいるのなら、それを敢えて修理せず、それを武器にできないだろうか?これまでの麻雀を破壊して作り直すよい機会だ。「破壊的創造」である。その創造のガイドラインとして、同卓者の所感、というものが存在するのだ、と思う。本当によい麻雀であるなら、同卓者の心持ちも悪くはないはずだ。


①「場の状況を丁寧に精査して、及第点を導き出す。」②「その精査した場の状況にあわせて、感性を重ねてゆく。常にこの順番でこなしてきた。
けれど、よせてくる年波には逆らえず、この①が「こなせなくなっている」場の状況を精査するための情報が拾えなくなってきている。
でも、「できなくなった」ではなく「できなくなったからこそ、できるようになったこと」を見つけたい。
このままだと、小さなエラーが多すぎて、同卓者に満足してもらえる麻雀など到底届かない。

 考える。例えばポーカーであれば、①→②の順番。世の中のどおりのほとんどは、感性を理屈が越える、なんてことはまずあり得ない。
けれど、麻雀ならそれを逆にすることだってできるはず。②感性のままで打って、①理屈で補完する。
これまで、「理屈にしたがって」様々なことを「小さくまとめて」きた。同じことの繰り返し。「早いタイミングで見切りをつけることを賢明である」と思い込んできた日々。
勤勉で賢明で真摯であることは、そのことを目的にした地点で、そうではなくなる。結果、どのように「ある」のか、が大切なのだ、とおもう。「在ること」の「有り様」にしか価値はない。全ての概念は、「事象そのものへ」帰結するのだ。

ポーカーを二週間近く勉強している。たくさんの動画をみて、ひたすら学ぶ。「失敗の経験」を求めている。初級のステージで、偉そうなことはいえないけれど、おそらくポーカーは、場の状況の精査がとても大切。それを学ぶためには、どうしてもリスクを抱えて前に進む必要がある。(ポーカーでいうところのフロップの三枚までをみてみたいのだ。)
その影響もあってだろう、この日の麻雀は、平素よりもいくつか「踏み込み過ぎたために」致命傷を負うことになる。

ひとつめ。
567m2256789p234s
ドラ3p
ここにドラの3pを引いてくる。
9pを切りカン4待ちダマテン。
「まだ」と感じてる。
567m2235678p234s
次巡 ドラの3pを引く。
567m2233678p234s
「リーチ!」
考える余地が介在しない感覚での
リーチ。
曲げたあと、「こんなの本当にリーチで大丈夫かよ」と思う。
だって2pは枯れており待ちは、
ドラの3p残り一枚だ。
すぐに3pをツモリ、3000 6000。
不思議な感覚に包まれる。

ふたつめ。
オーラスまで、ガンガン攻めていたのに、親番の上家で50000点近く持っていたのに、北家であることと持ちすぎている点棒に思考が縛られる。すなわち「振り込まない」ことに理屈が縛られた。ドラ表示牌の発。これに薄い違和感を感じていたのに、序盤にきりとばす。親番に仕掛けられて、結果12000を振り込むこととなった。違和感を感じている牌は、「切り飛ばして楽をする」のではなく、「違和感が消えるまで」切らない。(正確には切れない)ことが感覚に合致している。

みっつめ。
場に0枚のドラの東。
ハイテイ前、アガリ抽選を受けられないところで、イッツー確定役ありのテンパイ。これまでは絶対切らないドラの東を切って9600七対子ドラドラにささる。せっかくテンパイしてくれているのだから、東切りは理屈では絶対ダメだけれど、感覚としては大丈夫。ただ、ここで反省するべきことは、このイッツー確定役ありのテンパイは、テンパイではない、ということだ。自身で東を使用したテンパイをテンパイとして目指していたのだから、ドラの東を使用しないテンパイでテンパイとしてテンパイ料をもらいにゆくことは、矛盾している。

よっつめ。
上家のリーチに、ベタオリ。ドラの2sを誤って切る。
問題は、ドラの2sに気づかなかったこと、ではない。
ベタオリして、「戦う意志」を失っていることが問題だ。自分の刀を放り出して戦える舞台などあるものか。

結果半荘7回で5回ラス、2回トップ。それでもマイナス20ポイントでおさまった。ほぼ全局参加となっていた。思い込みの要素がもう少しフラットになれば自分の麻雀は、良くなると思う。

感覚を先ににおいて打つためには、「打ち込まれる覚悟」と、「叩き潰す胆力」が必要となる。それは、そのまま「身勝手」に繋がり、同卓者に迷惑をかけてしまうことになる。
そうならないために、自分にできることは、「麻雀の勉強」ではなく、「感覚に添う俯瞰」だ。ゲームを壊さない為に、そうする、ではなく、「自然と感覚に添えるイメージ」だ。
「正しい感覚」であれば、それにしたがってもゲームは壊れない。
「感覚に沿って」、その「感覚に沿っている様子」が独りよがりでないか、俯瞰するのだ。

師匠から、学ぶ機会がついぞなかった、おそらく最後の授業「感性の麻雀」。訓告としていただいた「自分勝手な思い込みに注意すること」。
これは、麻雀に限らず、私に最も必要なことだ。

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「好き」が最強す。

好きなものは、好きでいいかな?
と、思うようになる。理由は、「好き」。
簡潔でフィーリングはよろしい。
ただ、それでは、よくないと過去の経験が
強烈なブレーキをかかる。
痛い目にはあいたくない。
安全地帯を賢く歩こうよ。
人生はそんなに甘くなかったから。
それでも何度辛い目にあっても、
全く懲りないその理由について考えた。
割りと真剣に考えた。
やはり、たどり着く答えはひとつ。
きっと「好き」だったから。

幾星霜。
時を重ねてふと思う。「好き」だったのなら、
それでいいんじゃね?
これまでは、「やりたくないことでも」
「やるべきこととして」取り組むことに
価値があると思っていたけれど、
それってあんまり楽しくない。
「やらなければならないこと」
ではなくて
「やりたいこと」を重ねたほうが
問答無用に「しあわせ」だ。
こんな当たり前のこと。

夏休みの終わり。8月30日もしくは、31日。
母親が尋ねる。
「宿題やったの?」
まったく、やってない。
社会と絵日記以外手付かずだ。
やりたくないことは、やりたくないからだ。
だが…母親には、
「う、うん」と答える。
「うん」と答えてその後で
「なんとかしよう」とする。
やりたいことは、すべて先にやる。
やりたくないことはやらない。
後回し。
でも、悪いことをした気持ちになる。
この悪癖は、その後も全く改善しない。
麻雀がしたいから、勉強は後回し
→浪人
ビリヤードしたいから仕事は後回し
→破滅
悪いことを、した気持ちになる。
わかっちゃいるけどやめられない。
でも、思い返して、おおげさだけれど
これまでの自身の人生を振り返って
「いろいろあったけれど、
まあ、楽しかったかな。」
と思えている圧倒的な事実。
悪いことをしてる気持ちになる必要もないかな
とさえ思っている。

麻雀において、自分にとっては、
面前で組むことか「やらなければならないこと」
仕掛けることが「やりたいこと」。
ということがわかってきた。
仕方なく仕掛けたことなんて、一度もない。
シンプルに考えてみた。
自分は「仕掛けたい」のだ。

一発裏ドラありのルール。
配牌で、ドラが4枚あった。
ヤッホー
多くツモれるし高くなる。
ドラの5ソウのカンで
ソーズの繋がりを破壊。
さらにソーズの下を重ねて
たくさんある字牌を重ねればよい
だから…簡単じゃね?
→ノリノリでカン。
とりあえず三倍満がみえる。
ドラを暗槓することで、
他家は安易に字牌を切り出すこと
ができなくなるだろう。
9ソウも迷わずポン。
必要な牌の重なりはないけれど
やりたいことを躊躇なくやって
必要な牌を重ねて、
最初から必要な牌を持っていた、
と思わせるいつものさくせんだ。
仕掛けずに、丁寧にシュンツや
トイツを意識して面前で。
という「やらなければならないこと」ができない。本心では「やりたくない」のだ。多分。
カッコいい面前麻雀に憧れつつもそうではない。
二律背反。
隠して丁寧に潜航するのではなく
みせてぶつけて勝ち取りたい。

そんな自分の麻雀は、
(メンツが固定化されていることもあり)
実はかなりの勢いで攻略されてた。
他家がわりと躊躇なくものすごい勢いで
字牌を切り出してくる。
「待って!」
「重なるまで待って!」
心の中でそう叫ぶ私。
「ひとつでも重なれば、きっと
なんとかなるから」
「おのれー。ばんばん字牌切りやがって~」
けれど、ツモれどツモれど全然重ならない。
しかも他家リーチのおまけつき。
やっとこさ中が重なったときには
なかなか厳しい状況に。
でも。冷静にポジティブにみると
南と中しか枯れてないぞ。
まだまだ勝負はこれからだ!
この局面を万が一落としてもこの先
自分の親番はまだ二回あるからね!
3東南西北中中
中で受けつつ、西と東で押し返す。
わかっちゃいるけど、
たぶんこういう麻雀が好きなんだ、
と思わざるをえない。
面前の丁寧な手組には本当にいつもいつも
うっとりするけれど、
「最大攻撃」が大好きな自分には
どうにも困難な選択だ。
(ここでいう「最大攻撃」とは
「最大防御」も併せ持ってる。
全つっぱはやっていない。)
被弾せずに、根拠を必死で探して
押し返す感覚。
その一打がきっと大好きなのだ。
だから、その状況を精一杯楽しもうと思う。
麻雀を精一杯楽しもうと思う。

ちなみに、この魅力的な牌姿は
残念ながら、間に合いませんでした。
字牌がたくさんありすぎたものだから、
ミニマム三倍満だぜ!と
ドラ5ソウを大急ぎでカンしたけれど
4ソウや6ソウを横に伸ばす選択肢を
ほんの少しだけ残してもよかったかな、と。
字牌は重なるだろうと思っていたけれど、
1234の4枚のみで構成できるメンツよりも
1234567で構成できるメンツのほうが
使い勝手がよいことは、自明。


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