感性に添う麻雀

よい麻雀を打ちたい。
よい麻雀とは、美しい麻雀を打つことではない。
研鑽を戦わせて死力を尽くして戦うことだ。
精一杯、という言葉が介在しないくらい
精一杯戦うことなのだ。
私は、舞踏会に興味はない。
リングで殴り合いをしたいのだ。

ポーカーで殴られ過ぎて、我慢が効かなくなっている。この日の対局を振り返り、修正するのではなく、開発していこう、と思った。ブレーキが壊れいるのなら、それを敢えて修理せず、それを武器にできないだろうか?これまでの麻雀を破壊して作り直すよい機会だ。「破壊的創造」である。その創造のガイドラインとして、同卓者の所感、というものが存在するのだ、と思う。本当によい麻雀であるなら、同卓者の心持ちも悪くはないはずだ。


①「場の状況を丁寧に精査して、及第点を導き出す。」②「その精査した場の状況にあわせて、感性を重ねてゆく。常にこの順番でこなしてきた。
けれど、よせてくる年波には逆らえず、この①が「こなせなくなっている」場の状況を精査するための情報が拾えなくなってきている。
でも、「できなくなった」ではなく「できなくなったからこそ、できるようになったこと」を見つけたい。
このままだと、小さなエラーが多すぎて、同卓者に満足してもらえる麻雀など到底届かない。

 考える。例えばポーカーであれば、①→②の順番。世の中のどおりのほとんどは、感性を理屈が越える、なんてことはまずあり得ない。
けれど、麻雀ならそれを逆にすることだってできるはず。②感性のままで打って、①理屈で補完する。
これまで、「理屈にしたがって」様々なことを「小さくまとめて」きた。同じことの繰り返し。「早いタイミングで見切りをつけることを賢明である」と思い込んできた日々。
勤勉で賢明で真摯であることは、そのことを目的にした地点で、そうではなくなる。結果、どのように「ある」のか、が大切なのだ、とおもう。「在ること」の「有り様」にしか価値はない。全ての概念は、「事象そのものへ」帰結するのだ。

ポーカーを二週間近く勉強している。たくさんの動画をみて、ひたすら学ぶ。「失敗の経験」を求めている。初級のステージで、偉そうなことはいえないけれど、おそらくポーカーは、場の状況の精査がとても大切。それを学ぶためには、どうしてもリスクを抱えて前に進む必要がある。(ポーカーでいうところのフロップの三枚までをみてみたいのだ。)
その影響もあってだろう、この日の麻雀は、平素よりもいくつか「踏み込み過ぎたために」致命傷を負うことになる。

ひとつめ。
567m2256789p234s
ドラ3p
ここにドラの3pを引いてくる。
9pを切りカン4待ちダマテン。
「まだ」と感じてる。
567m2235678p234s
次巡 ドラの3pを引く。
567m2233678p234s
「リーチ!」
考える余地が介在しない感覚での
リーチ。
曲げたあと、「こんなの本当にリーチで大丈夫かよ」と思う。
だって2pは枯れており待ちは、
ドラの3p残り一枚だ。
すぐに3pをツモリ、3000 6000。
不思議な感覚に包まれる。

ふたつめ。
オーラスまで、ガンガン攻めていたのに、親番の上家で50000点近く持っていたのに、北家であることと持ちすぎている点棒に思考が縛られる。すなわち「振り込まない」ことに理屈が縛られた。ドラ表示牌の発。これに薄い違和感を感じていたのに、序盤にきりとばす。親番に仕掛けられて、結果12000を振り込むこととなった。違和感を感じている牌は、「切り飛ばして楽をする」のではなく、「違和感が消えるまで」切らない。(正確には切れない)ことが感覚に合致している。

みっつめ。
場に0枚のドラの東。
ハイテイ前、アガリ抽選を受けられないところで、イッツー確定役ありのテンパイ。これまでは絶対切らないドラの東を切って9600七対子ドラドラにささる。せっかくテンパイしてくれているのだから、東切りは理屈では絶対ダメだけれど、感覚としては大丈夫。ただ、ここで反省するべきことは、このイッツー確定役ありのテンパイは、テンパイではない、ということだ。自身で東を使用したテンパイをテンパイとして目指していたのだから、ドラの東を使用しないテンパイでテンパイとしてテンパイ料をもらいにゆくことは、矛盾している。

よっつめ。
上家のリーチに、ベタオリ。ドラの2sを誤って切る。
問題は、ドラの2sに気づかなかったこと、ではない。
ベタオリして、「戦う意志」を失っていることが問題だ。自分の刀を放り出して戦える舞台などあるものか。

結果半荘7回で5回ラス、2回トップ。それでもマイナス20ポイントでおさまった。ほぼ全局参加となっていた。思い込みの要素がもう少しフラットになれば自分の麻雀は、良くなると思う。

感覚を先ににおいて打つためには、「打ち込まれる覚悟」と、「叩き潰す胆力」が必要となる。それは、そのまま「身勝手」に繋がり、同卓者に迷惑をかけてしまうことになる。
そうならないために、自分にできることは、「麻雀の勉強」ではなく、「感覚に添う俯瞰」だ。ゲームを壊さない為に、そうする、ではなく、「自然と感覚に添えるイメージ」だ。
「正しい感覚」であれば、それにしたがってもゲームは壊れない。
「感覚に沿って」、その「感覚に沿っている様子」が独りよがりでないか、俯瞰するのだ。

師匠から、学ぶ機会がついぞなかった、おそらく最後の授業「感性の麻雀」。訓告としていただいた「自分勝手な思い込みに注意すること」。
これは、麻雀に限らず、私に最も必要なことだ。

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