緑一色

現在、思い出そうとすると、その光景はセピア色に染まっている。


何の気もない日常が、それでもとても尊く思い出されるのは、


年をとった、ということなのだろうか? 


 :::::::::::::::::::::::::::::


となりの卓から、怒鳴り声が聞こえた。


「ふざけんな、何が32,000点じゃい!」


酒が脳天まで廻っている様子のおっさんが、怒号をあげる。


酒のせいなのか、その頭頂の平野が真っ赤に燃えている。


まるで、おべんとうに入っているウインナーのたこさん、のような感じ。 


「緑一色じゃ。おまえ、リューも知らんと、麻雀打ちよったとかいな?」 


和了したほうのもやしのような風貌のおっさんは、淡々と続ける。


緑一色を、リュー、と呼ぶあたり、かっこいい。 


本当は仲がいいのだろう、 ほかのジャガイモとはんぺんのようなおっさんも


にこにこして、見守っている。 


そのもめているとなりの卓を覗き見したところ、


23のターツに4でのロン和了だ。


ところが、だんだん空気が変わってきた。 


「きさん、ふざけんな!これのどこがリューなんじゃ!」


お酒がはいっていたこともあってか、タコのおっさんが、


3ソウを指差して、小学生のようなインネンをつけはじめた。


23のソーズのターツ。 その3ソウが赤く塗られている。


(九州の一部では、チャンタも楽しめるように、赤牌は3の環帯に入れられていた。)


赤があるから、緑ではない、とチンピラみたいなインネンをつけ始めたのだ。


「リュー、っちゅうのは、どうゆう役じゃ?


ゆうてみい?あーん?どういう役じゃ?


手牌の全てが、緑っ、ちゅーことやないんかい?」


笑い飛ばされるであろうインネンに同卓をしていた


ジャガイモのような風貌のおっさんが同調した。


「確かにそうやな。これは、緑じゃないわな。


リューとはいえんなあ。 ホンイツ赤ドラ1の3900点じゃな。」


まさかの展開に、もやしのおっさんも


「 ふざけんな、おまえら、そういうやつやったんか!」


と激昂しだした。


「リュー狙いたいんやったら、赤3ソウは使わんことじゃな。


チョンボにせんかっただけ、感謝せいや!


このタコスケ、もっと麻雀勉強せいや。」


もやしは、そう吐き捨てて、ビールを煽った。


「そんなん、最初に決めてねえやないか!キサンぶちころすぞ!」


たこは、もやしのむなぐらを掴み、つっかかる。


麻雀サロンの喧騒は、この騒ぎをまるで日常のように包み込む。 


じゃがいもとはんぺんの仲裁もあったが


「あー、ばからしいわ。もうやめた!


お前らとの付き合いはこれまでじゃ。 絶交じゃ!」


と、たこは、万札を卓に叩きつけて、麻雀サロンを出てゆく。


残された3人は、しょうがねえな、と金をひろい、マンズを抜き、


ビールをくいっ、とあおり、タバコを燻らせてサンマをはじめた。


 それから、しばらくして、麻雀サロンでタコを見た。


タコは、また同じメンツで卓を囲んでいて 


 しこたま負けているのか、いつものように赤い顔をしていた。


どうやって仲直りしたのか、と思いながらも


きっと、「けんかするほど仲がいい」というやつだろうな、と納得する。 


私たちのセットに、取り決めが生まれる。


①酒は飲んでも飲まれるな。


②緑一色は赤、使ってもいいよ。


でも、それから、我々の卓で、リューが出ることはなかった。


 


 


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究極の国士無双 [麻雀小説]

満月が歓楽街の外れにある、屋台を優しく照らす。

「なあ、国士無双ってあるだろ?」

くたびれきったサラリーマンがおもむろに口にする。

「ああ、麻雀の役だな。」 となりでカップ酒を齧っていた男が、所作なく返す。

「その国に並ぶ者などいない強者という意味らしいけど、麻雀の役だと少し意味が違うんだ。」

と、続けるサラリーマン。 

麻雀でいう、国士無双っていうのは、弱者に残された最後の希望なんだよ。

使いものにならない19字牌。

このてんでバラバラのクズ牌を13枚集めると、最強の役になる。

どうしょうもなくツキに見放された人間への最後の救いの役なんだ。

なんだか、ロマンチックだと思わないか? 最低最悪の不遇な逆境を、最高なチャンスに変えることができる。」 サラリーマンは、誰に伝えたいという風でもなく、小さな声でつぶやいた。

「麻雀っていうのは、人生そのものなのか。諦めなければチャンスは必ず来る。」 IMG_0438.jpg ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

仕事が終わると、その麻雀教室へ向かった。

時計の針は、午後9時10分を指す。

幹線道路を、信号に引っかからないよう祈りながら、車のアクセルを踏む。

私の通っている麻雀教室は、午後11時には終了する。

「半荘一回は、打ちたいなあ・・・」 そう願いながら教室の前に車を停め、教室の扉を開ける。

ご婦人が興じている一般のノーレート卓が、一卓。

どうやら競技麻雀の卓はまだ立っていないようだ。

最悪、今日は後ろ見オンリーになるのかな、とそう覚悟していた私は、安堵した。

今日は、とにかく打ちたかった。

昨日の対局では自らの弱い鳴きで、好牌を散らしてしまった。

今日はいつもとリズムを変えて、重い麻雀を打つ、そう決めていた。

夕方から、気も漫ろだった。 今日は、競技麻雀の生徒が少ない。

もしかしたら、先生と打てるかも知れない。

そう思いながらひろりんの方を見やる。

「久しぶりに、打つかね?」 ひろりんは、抑揚のない声で、私に答えた。

ひろりんは私の先生。 類なる感性で、麻雀の無限の可能性を教えてくれる。

僥倖。 願ってもいないチャンスが訪れた。

ひろりんの、ご子息と、私と、Dいん。 この4人での、競技麻雀での対局となった。

半荘1回。 とにかく、悔いが残らぬよう、しっかりと打つ。

そのことばかり考えていた。

打てる人間と同卓すると、途端に手が入らなくなる。

私は、ひろりんの対面。北家スタートだ。 重い展開が続く。

僅差の攻防戦。1300点や2600点の和了で、場が進む。

ひろりんは、ほとんど仕掛けず、ノーテン罰符と小さな和了が一つ。

もともと早いリーチや愚形リーチは多用しない打ち方がひろりんのスタイル。

いつも何をやっているのか、わからない、そんな感じだった。

リーチを打てば、ほぼツモ和了されてしまう、いつもそんな感じだった。

そして、迎えた南2局。 忘れられない一局。 ひろりんがトップ目の親。 ドラは北。

このひろりんの親だけは、なんとかしないと。

北家である私に、親番は回って来ない気がした。

暗黙のうちにひろりん以外の三人は、この親を落とすこと、に終始する。 競技麻雀は、60分打ち切り。

ただ、ひろりんもすんなりと和了できそうな状況ではなかった。

私は全神経を集中して、 ひろりんの打牌を見つめる。

私のツモ番。 ひろりんと目が合う。 ひろりんも、私の打牌を見つめていたようだ。

というか、誰も自分の手牌なんて見ちゃいない。

そう、手出しツモ切りを見極めて、 相手の13枚をひたすら考える、その作業に没入していた。

当時、半荘1回200円。 今思えば、この内容であれば、半荘1回10,000円でも惜しくない。

それほどに、熱い対局だった。 2度と戻れぬ灼熱の日々。 我々は、ひろりんの麻雀に、心酔してゆく。 

南2局。 画像の捨て牌で、ひろりんが⑤を切ってリーチ。

 11.jpg 

九①西9⑨五 タンピン系か、チートイ。 ドラの北を二枚持たれている可能性が高い。

我々は、必死で受ける。 ひろりんが、一発でツモらなかったということは、ロン和了狙いだ。

そして、終盤。窮して離したどいんの四枚目の東が、国士無双に突き刺さる。

48,000点。

なぜ?なぜ? この状況で国士狙いなどありえない。

我々は、狼狽え、ひろりんに問い詰める。 我々の、問いにひろりんは粛々と答える。

もう過ぎ去ったこの1局を完全に再現する。

我々の失策も露呈する。

とにかく、東場から、わしの形はよくない。牌が動いていない。

また、みんなの形もよくない。

全員の捨て牌が、そう教えてくれちょるじゃろ? 強い牌の周りが全然動いちょらん。

南場に入ってからもそう。仕掛ける絵が来ない。

特に、国士を狙う直前の1.2局は、シュンツ手を狙うことが難しいと、牌が教えてくれちょる。

じゃから、親番は、チャンタとチートイ、そして国士の天秤。

何牌かツモり、チートイがきびしくなり、端の牌を縦に切って、あらゆる可能性を追う。

さらに何牌がツモッてみるんじゃが、強い数の周りが動かないので、最終的には、国士無双のテンパイ。

配牌で、8種9牌じゃから、国士を狙う。そんなのは麻雀じゃなかろう。

誰にでもできるポンジャンゲームじゃ。そんな楽な麻雀はつまらん。 わしは、そう思う。

もっと、大きく大きく捉えなさい。目の前にある物が全てじゃないじゃろ?

この国士も単なる結果にすぎん。

そこに至る過程を大事にしなさい。

それが麻雀じゃ。

4枚目の東で、国士無双に放銃したどいん。

ドラといつのチートイも注意して受けていたが安牌がなくなり、迷惑をかけまいと止めていた東を切る。

 今でこそ、「あの東はぬるい」と笑いながら話せるが、当時はたまったものではなかった。

ひろりんの思考を尋ねて、我々は恥ずかしくなる。

和了そのものよりも、努力の積み重ねがすごい。

1牌1牌が、とてつもなく重い。

ただ、牌を絞っていただけの自分たちの努力不足を心から恥ずかしく思った。

ひろりんが、なぜ、ノーレートで、そこまで魂を込めてくれるのか、今はとてもよく解る。

ひろりんは、我々に自分の大切な「麻雀への想い」を本気で伝えてくれようとしていたのだ。

この頃の対局は、1つ1つが、もう二度とあいまみえることは敵わない師との、揺るぎない絆となる。

国士テンパイ時も、対局者にチャンタや、イッツーを意識させるように手牌を並べる。

果てしない工夫が、私に与えてくれたドキドキは、

25年経った現在でも、私を突き動かしている。

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超面前派

仕掛ける理由は、間に合ってないから。

先んじることができれば、対応する、のではなく

対応してもらう、ことができる。

風下に回らないことが一番大切だと、体に染みついている。


初参加の方。

とても、よい麻雀を打ってくださる。

その麻雀を観たい、ということと、

あまりピーキーな真似をして、

「なんなの、このひと?」と思われたくない、という理由から重めに組む。

麻雀は4人で打っているわけだから。

東場は、観察をして、南場の親を起点にして1回の攻撃まくりを考える。

仕掛ける牌をスルーして、形を整え

前に出ないで、しっかりと受ける。

56m4678p67789s北北

この13枚の時に先制リーチ。

縦重なりのありそうな、最終手出し、マンズのタンピン系のリーチだ。

3mを引いて、ツモ切りを考えるけれど、

ここは、マジョリティにしたがって、北を切る。

場に一枚もでていない北。

チートイにささった。

平素なら、ピンズに色読みをして、マンズを押す局面だ。

受ける、と言いながら、おりている。

受けるということは、リーチを受けて、手牌を再構成すること。

リーチを踏み台にして、価値のある手組に組み上げることだ。

受けるなら、9ソウからだ。

一盃口、チートイツを遠くにみて、タンヤオ軸に組みなおす。

北は、受けている牌ではなく、「逃げている牌」だ。

こういう魂のない打牌を重ねることなんて、これまではなかった。

腑抜けでいる。

自分の打牌を過去の自分がみたなら、その軽さに、気を失うかもしれない。

打つのなら、死力を尽くす。それが、礼儀だ。

これが、できないのであれば、少なくとも自分の麻雀には価値がない、と思う。

最近、思考に切れが全くない。

感覚が死んでいる。

きっと、感性に水をあげることができていないのだな、と思う。

死力を尽くして打てば、「なんなの、このひと、鳴いてばかりで。」

とは、思われないはずだ。


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ひより。

攻撃こそは、最大の防御。


けれど、それは攻撃を加えることで、相手を戦いの土俵からおろすことが可能な時だけだ。


おりない向かってくる相手は、やっかいだ。


大切なのは、戦う姿勢。


臆病で心配性な自分は、たくさんの戦いの経験のなかで、


「戦わないとたいへんなことになる」ということを知っている。


なので、こわいけれど、前に出る。


そのおかげで、今日まで生き残ることができた。


それは、私生活においても同じことだ。


けれど、時を重ねると臆病になる。


賢明という言葉で自分をごまかしながら


「戦わなくてすむ理由」をさがし始めている。


それは、卑怯者のすることだ。


幼いころから、父親に「卑怯者になるな」と育てられてきた。


それは、私が卑怯者で、父もまた卑怯者だったからだろう。


でもそのおかげで、ずるいことをすると、気持ちがもやもやして


とてもあたまとからだの具合が悪くなる。


オーラス。


東家


18000点くらい


北家(自分)


60000点くらい


東家 「だふー」は 確実に向かってくる。


南家と北家の和了には期待することは、虫が良すぎる。


「自分が和了して決着をつける」


60000点の点棒は、とりあえずなかったことにして、


自分の上にもうひとり、トップがいるつもりで、打つ。


だふーが、ドラの8pをアンカンしやがった。


カンドラがめくれる。


このあと、他家の様子をみるも、和了に向かう気配はない。


カンドラ、カンウラは、彼らの和了への起爆剤とはならなかったようだ。


とすれば、自分が和了するしかない。


私に、カン2pの役なしテンパイが入る。


1p2枚、3p1枚、4p2枚。


カン2pの様子は悪くない。


ノータイムでリーチを打つべきだ。


けれど、だふーは、むかってくる。


他家はおそらくベタオリ。


「カン2pは、和了できるだろうか?」


「迷い」が生まれる。


そして、


「振り込んだならどうしよう?」


「恐れ」が生まれる。


「リーチ」の声が出ない。


リーチを逡巡した巡目に、だふーから、2Pが打たれる。


「しまった! 緩手だ。」


その次巡、だふーはリーチ。


わたしも、慌てて追いかけリーチを打つが、


だふーに一発でツモられる。


和了ヤメのないこのルールでは、


倍満24000点を振り込んだとしても、


次局 マンガンでトップに返り咲く。


最悪だ。


これまで、どんな時もちゃんと戦ってきたのに、


親のドラアンカンに、ひよってしまった。


あわよくば、親のノーテンで終了しないかな、などど、


自分にとってムシの良い思考に逃げてしまっていた。


最速のテンパイをもらっているのに。


この「ひより」は本当に最悪だ。


和了に向かって、まっすぐ打つ。


カン2Pで、テンパイしてくれた。


このテンパイを戦わせてあげないことは、怠慢だ。


矛盾をごまかし、逃げ回ってとったトップと、


しっかり戦い、降着すること、とでは、後者のほうが価値があるし、未来がある。


この次局3副露のマンガンで、トップを取ることができた、


色と形をあわせた、トイトイドラドラだ。






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アヤを感じる牌と、四暗刻

勉強会と実戦は繋がっていなければ、意味がない。


ただ、勉強会のときは、よりたくさんの選択肢を持てるようになるために


「できるだけ、同卓者の勉強になるように」


という気持ちが根底にあるものだから、どうしても、弛緩してしまっている。


大切なのは、現在何をするべきか?だ。


ここでいう、現在とは、もちろん「過去の総括」と「未来予測」の点である。


36000点持ちの、東3局。


配牌から、ホンイツの手牌が入る。


上家にマンズは安くなく、場に対するマンズの割合は、20%くらい。


(個人的な所感としてのマンズ占有度です。)


すこし、高いかな、というイメージ。


配牌


12455678m29s中中北


6巡目まで、ほとんど動かない。


最後に8mをツモって以下のかたち。


12245566788中中


7巡目 上家から3mが打たれる。



対面親番が今にもリーチが刺さりそうだ。


チー。


清一色へ向かうことはやりすぎだ。


あの配牌が7回のツモ牌をもらって、ここまでしかすすまなかった。


親リーの脅威がもうすぐ目の前まできている。


ここで、清一色にゆくことは、工夫や努力ではない。


高打点の可能性よりも、やらなければならないことを優先する。


8mが打たれて、ホンイツ2000点を和了する。


そのあとも36mでハネマンを和了。


マンズがよい。


南3局 70000点近い点棒がある。


1回のトップを確保するために、自分の得点のチャンスをおろそかにはしない。


1回で2回分のトップを狙う麻雀だからこそ、


平素のアグレッシブな仕掛けが可能となる。


親番 下家の8mを仕掛けて以下の形。ドラは8p。


55688p45888s ポン888m


下家からリーチがささる。


河を見るに、ピンズのメンホンチートイ


このあと、下家から打たれたドラ8pにも食いついた。


ドラが3枚みえたので、気を付けるのは、四暗刻単騎だけだ。


四暗刻単騎であれば、リーチは打たないだろう。


6pを切った次巡。


下家が、8mをコトリとツモり、8000・1600と申告をする。


8mと中の四暗刻だ。


東3局の中と8mを思い出す。


だが、36sのタンヤオドラ3を和了することもできていたわけだから、


それをいうことは、結果論に過ぎない、と思う。


だが、麻雀の牌の折り重なりは不思議だなあ、とおもう。



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実戦と勉強会

人間には、第6感というものが、あるらしい。


自分は、こういう事柄を結構意識している。


「予感」


でも、それにはちゃんと理由がある、と思っている。


例えば、ここはカンチャンに受けたなら和了しそうだ、とか、


そういう感覚は、実は刷り込まれた「過去の自分の経験によるもの」であることが多い。 


また、勉強会と実戦はイコールとはなりえない。


「一生懸命打つこと」と、「必死で打つこと」は、やはり違う。


今回の対局では、それを痛感する。


勉強会では、動画をとっているので、容易にその対局を振り返ることができる。


なので、一生懸命に打つ。その時の気持ちまでも、ちゃんと振り返ることができるように。


そうできているつもりだった。


勉強会も実戦も同じ品質で打てていると。


「観戦させていただいてもいいですか?」


背後に人を背負う。


その瞬間、ちょっとギアがあがる。


いつもより、透き通るような心地よい感覚。


123789m79p79s発発発


ドラ7m


ピンズが重なれば、8sはツモれる。


問題は、8sが先に入った時だ。


8Pでの和了は難しそうだ。


8sが入っても、カン8pでのリーチは×。


全体の河をみても、ピンズの上は重い。


カン8pが上家から出たなら、先にチーだ。


ここまでのことが、逡巡なくこなせている。


どうすればよいか、の判断にまよいがなく、遊びがなく


揺るぎない一本道が見える。


懐かしい感覚だ。


手牌と場と思考が繋がり、魔法がかかっているみたい。


自分で言うのもなんだけれど、淀みない。


まだ、自分に、こういう麻雀が打てたのか、と、喜びと安心がこみ上げてくる。


麻雀の対局こそ、ライブであるべき。


必死で淀みなく打つ感覚は、研ぎ澄まされており、理屈を超える。


打牌を撮影していないから、二度と振り返れない。


記憶の中に残せなければ、なくなってしまう「切なさ。」


だからこそ、愛しく、必死で打つ。


目的が違うのだから、勉強会では、同じ温度にはなれない。


「実戦でしっかりと戦うため」の勉強会だ。


「勉強会の教材のため」の実戦ではない。


ただ、どちらも、目的は


「淀みない 良い麻雀を打つこと。」だ。










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勉強会③手を抜かないこと

楽をすることには、意味がない。


楽を覚えると、工夫や努力を置き去りにしてしまう恐れがある。


けれど、工夫や努力をしない頑張りは、もっと意味がない。


(それは、努力とは呼べない、と思う。)


たくさん考えることを、薦めている私だけど、


それは、たくさんの選択肢のなかから、


瞬間で「最良の解」を導き出すための積み重ねに過ぎない。


局の目的は、他家の1打1打で大きく変化する。


その局面にあわせて、工夫や努力をすることが必要。


やるべき適切な仕事を見つけることが必要。


そして、効果の高い仕事の方法を選択することが必要。


場を見て、場の状況を判断して、自分にとって一番価値のある仕事を選択する。


この仕事の選択こそ、そのひとの価値だ。


そのひとが、一番やりたいことを仕事にするべきだ。




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仕事終わりに、半荘1回を打って、感想戦をする。


これが、1番充足感が高い。


その日の残りの時間で、ゆっくり反芻できる。


456777m2223456p6s


できることなら、6s単騎に受けて、三色もみたい。


けれど、ドラポンが入っていて、ソーズのホンイツがあぶない。


こういう時に、受けとして、攻撃の要として、6sを残すのか?


6sを叩ききって、和了にゆくのか?


正解はない。


その時、その人が迷わない打牌とできたなら、それが正解だ。


オーラス。


トップ目と20,000点差 親番。


ドラが2枚。


これに、形を重ねて12,000を作るのか?


5,800で刻むのか?


自分に悔いが残らない打牌が正解だ。


一手代わりの四暗刻。


三暗刻で折り合いをつけることも、


見送り高めをみつめることも、どちらも選択肢としては、ある。


ただ、自分が「すっきり」することが大切。


その日を振り返って、どうだったのか?


この日の自分は、


捌くべき牌を、欲に駆られて我慢したり、


場の色が不鮮明な季節から仕掛けたり、


と、結果、独りよがりで舐めプの打牌が多かった。






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相克のとき。

ずいぶん 長い旅を続けてきた気がする。


「麻雀」から離れる機会は何度もあった。


他に自分にどんな興味のあることが重なっても、「麻雀」だけは


いつも、片時も離れず私のそばにいた。


「全てを映し出す鏡。」


「絶対に自分を裏切らない存在。」


頑張ったら、頑張った分だけ、必ず前に進める。


麻雀との旅。


それはずいぶんと長い旅で、なんだか、予想以上に遠くへ来てしまった。


::::::::::::::::::::::


道場へ足を運びだして、2日目。


私の後ろには、師匠が、どかっ!と座っている。


フリーでは、「音速で仕掛ける嫌がらせ」を信条としていた私は、


その麻雀を過信していた。


簡単にいうならば、思い上がっていた、のだ。


師匠に「自分が打てるところ」を見て欲しくて


初巡から、両面ターツを仕掛けて1000点を和了する。


七八のターツに


その瞬間、背後から「重い声」が響く。


「あなた、その麻雀で楽しいかね?」


「みんさい」(見てみなさい。の意味)。」


そう言って、7巡目で終焉を迎えた卓の景色を見やり、


私の仕掛けを戻して、粛々と「わたしの本来のツモ」を開く。


自分の和了した、タンヤオチュウは、


その仕掛けをひとつ我慢すれば、ドラを抱え、


3つの色、シュンツの形、並んだ数。


タンピン三色ドラに成長していた。


「あなたの麻雀は、身勝手じゃ。


麻雀をもっと、大切にしなさい。


もっともっとたくさんのことを考えなさい。


そうすれば、麻雀はもっと楽しくなる。」


それから、20年。


自分は、相手がどうあれ、どのような世界であれ


自分なりに、頭がひっくりかえるくらい考え続けてきた。


誰かに、ほめて欲しいとか、そんな浅はかな理由ではなく、自分が納得するためだ。


知れば知るほど、自分が知らないことに気づくことができる。


「知らないこと」を「知る」喜び。


これは、(マズローの5大欲求でいうところの)自己実現の欲求を満たしてくれるもの。


「知らない」から「知る」ことができる。


「知らない」ことを知らないと、なにひとつ「知る」ことはできない。


自分は、このことを伝えたくて、つかさ会を作った。


そして、全てを賭けて部室を作った。


麻雀と同卓者を大切にすることで、麻雀の懐の深さを共有したい。


根底には、あらゆる事象へのリスペクトが存在するべきだ。


もし、麻雀に勝ち負けがあるとしたなら、


自分が納得できているかどうか?


同卓者を大切にして、大切にされているかどうか?


自分だけが納得できている麻雀は嘘だ。


何故なら、麻雀は4人で打つものだから。


自分が納得できている麻雀なら、自分の麻雀を大切にしてくれているであるはずの


同卓者が納得できていないはずはない。


だが、現実はままならない。


残念ながら多くの人が、自分が一番大切で、


「自分の麻雀の枝葉に、他人の麻雀がある」と勘違いしている。


「麻雀」は他人と比較するものではなく、「過去の自分」と比較するものだ。


他人と比較しての優劣を求めることは、愚劣だ。


相手へのリスペクトなしにゲームは成立しない。


だが、しかし、


こんな私見をこぼしている自分の成績が、劣悪だったらどうだろうか?


それでも、本当といえるだろうか?


考えつくした打牌、同卓者へのリスペクトの結果、


ひどい成績だったとして、それが納得のゆく麻雀だ、と思えるだろうか?


私は、それでよいと思う。


あらゆる事象を大切にしようとしていることに価値がある。


いや、むしろ、そのことにしか価値はない。


例えば、1打目。


全ての可能性を考えて、その一打をおろそかにできなくて、考え抜いた結果の1打。


「当たり前の効率」を踏まえた上での高次な思考。


その結果、うまくいかず、成績には繋がらなかったとしても、


その事象を振り返り、考察して検証して修正してゆくことには、価値がある。


配牌を受けたときに、「効率」のみを盲信して紡ぐ一打よりも、はるかに価値がある、と思う。


その積み重ねが、説得力のある麻雀の重さに繋がるのだ。


それは、30年麻雀のそばにいた、私が痛感していること。


自分は、対局中、相手の麻雀の内容を、必死で観させてもらっている。


同卓して伝わってくる感覚は、どんな言葉よりも嘘がない。


当たり前のことを、当たり前にやるだけ、それは、怠慢だ。


「あなたは、自分の好きな麻雀しか、大事にしない。」


師匠の言葉通りに、自分と目的が異なる相手の麻雀に、興味がない。


そんな自分を睥睨する自分がいる。


こうして、見つめなおして反省することは、


自分には、懸命さ、が足りない、ということだ。


同卓者に自分と同じ意識を持ってもらえると勝手に


期待をして、ままならなくて、厭世的になっている幼児性。


本当はそんなつまらないことに囚われていないで、もっと素直に懸命になるべきだ。


それが、できないのであれば、環境に甘えて寄りかかっていないで


いますぐ、麻雀をやめるべきなのだ。


打ちたくない気持ちを抱えて、麻雀を打つことほど、


失礼でおこがましいことはない。


もう、十分に楽しませていただいた。


あとは、どう幕を引くか、だけのことだ。


悔いが残らないように。






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らくえん


らくえん。


客層の職種はさておき、上品な兄弟が経営していることもあり、


常連はみな、感じがよかった。


平素は粗暴であっても、この店での対局においては、みな紳士でいる。


上品に振舞おうと意識している。


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白い「いかついグロリア」は、毎晩22時頃に現れる。


ダブルのスーツを着た、見るからに、のフォルム。


スキンヘッドのおにいさんは、その風貌にあわず


驚くくらいに、とにかく腰が低い。いつもにこにこ。


麻雀を覚えたばかりらしく、他の客の麻雀談義にも、興味深そうに頷いている。


誰かが、役満をあがれば、「すごですねえ」と目をキラキラさせている。


と、ある、そのおにいさんとの対局中。


おにいさんのケータイが振動する。


その画面をみて、いぶかしがりながら、


「すいません。代走お願いできますか?」


と、おにいさんは、卓を離れて、店の外へ。


おにいさんの怒号が、店内まで聞こえてくる。


「おう!こら!なめとるんか?


今から、いくど。覚悟しちょけや!」


おにいさんは、ひとしきり怒鳴ると店内に戻り、


いつものにこやかな表情で


「すいません。急用ができてしまって。


このあとの対局、お願いできますか?」


と、きれいな1万円札を長財布から出して、丁寧にサイドテーブルに置き


代走をお願いした店員さんに、丁寧に頭を下げて、店から出て行った。


「おにいさんが、この場所と麻雀を大切にしている」という気持ちがこぼれている。


それでも、そのおにいさんから、小銭を巻き上げようと思っている自分が、みじめだった。


::::::::::;::::::


店の店員である兄弟二人と、私。そして大男。


私は大男の正面に座る。


その大男は、卓に着くと、なんの違和感もなく


「よろしくお願いします。」と丁寧に頭をさげた。


卓の中央、液晶表示のサイコロがまわる。


東1局 南家である私に、役牌の南が組まれる。


開局刹那、高打点も見える13枚をもらったけれど、ここは足を使う。


全ての局を和了しきって、相手を完全封殺したい。


仕掛けてホンイツイッツー役牌のルートを見切り


初牌の南を叩いてすばやく、南ドラ1、2000点を和了する。 


(フリー麻雀のコツは、安手だろうとなんだろうと、とにかく手麻雀であがり続けること。

自分の手が安いということは、他家の手は高い。

自分が安手でもあがれば、他家のチャンス手をつぶすことができる。

まずは、他家の形を払うこと。 そう、その頃の私は信じていた。)


いつもどおりの軽いあがり。いい感じだ。


そう思い、点棒を受け取る私の手牌に、強い視線を感じた。


大男の視線だ。


遠くをみつめるような、慈しむような、なんとも表現できない表情。


私の捨て牌と、倒された手牌を見つめていた。


私ではない、麻雀牌を見つめていた。


「なんだ、この男は?なにか文句があるのか?」


私は、その大男になんともいえぬ不思議な感覚を覚えた。


いままで、こんな風に自分のあがり、自分の麻雀を強く見つめられたことなどない。


不気味であることはもちろんなのだけれど、


なんだか自分の南ドラ1の和了が、 とんでもなくいけないことだったような、


そんな気持ちまで、沸いてきた。


「嫌な感じだ。」  頭を振り、そんな雑念を振り払う。


「いままでも、こうやって打ってきた。 結果は出ている。


これからも、同じ様に打つだけだ。俺は間違ってなどいない」


次局は、私の親番だ。


自分のアガリでひっぱってきた親番。 展開は良好だ。


私は、卓上に漂う違和感に気づかないふりをしながら、


自分のこれまでの銭ゲバ麻雀を信じて、次局に向かってサイコロを振った。


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雨の夜



当時の記事を、探したけれど見つからなかった。


記憶も蒙昧で、カンチャンを一点で読まれていたこと、と


異様な威圧感は、峻烈に記憶に焼き付いている。


全て、書きなおしになり、なおかつ過去記事との齟齬があることを、


申訳なく思いながら自分が麻雀に傾倒していくきっかけを、掲載してゆきたい。


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自分の麻雀の力でも「勝てる店」を選定していた。


麻雀で勝つために、一番大切なことは、「自分より拙い相手と打つこと」だ。


そして、同卓拒否をされないこと。


その為には、この人は、強いと思われては損だ。


店のメンバーあたりから、辛く打たれてしまう。



勝てばよい。勝つことだけを目的として他人の嫌がることを最優先する。


自分のいらない牌は切りまくるけれど、絶対にふりこまない。


捌いて、捌いて、捌きまくる。


ラスを引くくらいなら、2着でよい。


三色?イッツー?手役への憧れはいらない。手役は、もはや、都市伝説だ。


タンヤオと役牌で全ての局に参加する。


麻雀は自分が和了できれば、失点はない。


また、私の鬱陶しい打牌で、他家が手順を誤るのであれば、それはとても効果のあること。


そう割りきったあとの私の成績は、良好だった。


不ツキのアヤを感じれば、もうその日は店じまい。
ツイているときは、とことん攻める。
最初の半荘で、ラスを引いたなら、そこで一度卓を洗う。
トップを取ったなら、連帯を意識して打ち続けて、3着を引いたなら、ラス半コール。
「身勝手な振る舞い」でも、ルールに違反はしていない。
とにかく、お金が目的だった。
勝つこと。勝つ為には負けないこと。
麻雀での副収入がなければ、明日もない。
月トータルで、7万円は、必要だ。
たくさんいる常連客。みな楽しそうに打っている。
みな、その日やらなければならないことをこなして「麻雀」を楽しんでいる。
けれど自分はそうではない。
「麻雀を打つこと」の楽しさなど、とうに忘れ去り、「お金」だけをを目的にしていた。
そのうえ、お金が目的と悟られぬよう、目立つ振る舞いは控えていた。


とにかく、ラスだけは引かないこと。ゲーム代と、ヒラがある。


一回のトップをラスでは返せない。


南2局からの、2着狙いなんて、常套手段だ。


2着にぶらさがることは、ある意味トップをとることよりも大切だった。


2着3回、トップ1回は、トップ3回、ラス1回より価値があった。


たくさんの麻雀荘を放浪して、一番心地の良い雀荘へ。


「らくえん」と呼ばれる雀荘。


清潔で、雰囲気の良いその店で、ジグマスタイルを取っていた。


一番負けにくい雀荘。


自分が負けにくく、勝ちやすい雀荘。


若い兄弟が、経営している雀荘で、客層も若い。


卓も新しく、卓の中央では、液晶表示のサイコロが躍る。


ゲーム代もリーズナブルで、客層も初心者が多かった。


テンパイやノーテンは所作でわかるし、


打点がみえているときには、振り込んだり、和了してもらったり、 


全てを利用していた。はっきりいって、やりたい放題だった。


毎日午後19時に、入店。悪ければ半荘1回。


      良ければ、朝まで。


サラ金の取り立て屋。パチプロ。


700円の弁当を頼んで、1,000円札を渡して「釣りはいらない」なんていうくらいの連中。


小銭は蔑ろにされているそのくらいの感覚。


職業や金銭感覚は別にして、皆マナーはがよかった。


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雨が降る。


金がなかった。


とにかく、金がなかったんだ。


自分が手っ取り早く、「小銭を掴む手段を考えた時」に、選択肢はなかった。


「フリー麻雀。」


大好きだった「麻雀」を、生活の手段に変えざるを得なかった、あの頃。


誰かの涙のように、雨が降りしきる。



店内まで響く雨音が、不思議と気持ちを落ち着かせてくれる。


こんな夜には、何かが起きそうだ。


その日も、卑しくも日当分を稼ぎ、時計を見やると、午前1時。


雨足の強い帰路を気にしながらも、私はラス半コールを入れた。


こんな時間、こんな天気の時に、新しく来る人間もいないだろう。


店員2人入りでの、その日最後の対局。


ゲーム代を先払いしようとした刹那、店のドアが開いた。


雨音を背中に背負い、重い声が響く。 


「打てるじゃろうか?」


声の主は、山のような大きな体をしていた。


人の良さそうな顔つきだが、目だけが妙にギラギラとしている。


「もし、邪魔でなければ、1.2回遊ばせてもらえんじゃろか?」


そう続けるその男に、店員は「どうぞ」と席を譲りルール説明を始めた。


「レートは・・・」そう口にする店員をその男は遮る。


「説明はええ。また、わからんことがあったら、教えてつかあせ」


謙虚なのだかなんだか、得体が知れない。


とにかく、私は、その男のことが気にいらなかった。


「レートもルール説明も無用とは、何様だ。偉そうな様子。気に入らない!」


自分のナワバリを荒らされたくない気持ちが、こみ上げてくる。


狭いイケスの中の安いプライド。


今日の私は、思いのほか、状態がよい。ツモリ続けてやる!


雨は降り続けている。雨音が遠く聞こえる奇妙な静寂の中、対局が始まった。


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