牌の気持ち、自分の気持ち。

本物以外は欲しくない。


少ない対局回数のなかで探求の旅は続く。


自分の麻雀のせいで、「自分の麻雀を見てくれているひとの麻雀」がおかしくなってゆく。


手牌のみを信じて、被弾するもの。


遠くて高くて、危険な手組をするもの。


「場の状況」→「安全エリアの確認」→「守備」→「手牌の可能性」=たくさんの選択肢。


この順序で、しっかりと重ねてきたひとを除いて。


みな、リスクを抱え過ぎた一か八かの麻雀を打っている気がする。


そのひとにとって、矛盾のない打牌であれば、問題はないはずだ。


けれど、そうおもうことが、自分の思い上がりなのかも知れない、とふと、思った。


卓に落ちる情報を精査しつつも、色、形、数、を執拗に意識する


手牌のことを、一番最後に考えることが、一番たくさんの選択肢を持つことができる、これを信じる。


そういう自分の麻雀は、おそらくマイノリティだ。


自分なりに、打牌選択の有利、不利を理解した上で、重ねている打牌が、マイノリティなのだ。


自分の打ちたいように打つことで、他人に迷惑をかけるくらいなら、


もう、マジョリティの麻雀でよいのではないか?


自分は、仲間の麻雀を守る責任がある、と思っている。


麻雀の楽しさを伝えるということは、


そのひとに麻雀を楽しんでもらう、ということだ。


仲間との麻雀は、「誰もが正しいと思う麻雀を伝えて」もう自分の打ちたい麻雀は、


それが許される相手と、ほんの少しだけ重ねればよい。


そうは、思うけれど、その選択が正しいのか、は自分にもわからない。


しばらく、本意ではないけれど、誰もが正しいと思う打牌を重ねてみて、


麻雀からの返事を待とう、と思う。


オーラス。


1300.2600のツモ。


リーチ棒がでたなら、3900のであがりでよい。


ドラは1ソウ。


3456m45p122356s


ピンフ三色ドラ1が見えている。


もちろん展開が長引いた場合には、


仕掛けて三色ドラドラも考える必要があるけれど


浅い巡目で、この形であれば、基本面前での手順が最優先される。


マンズの伸びを期待していた3456mに5mを引いてしまう。


場には、マンズが安い。


ソーズもほどよい。


この5mを引いた意味を考えてしまう。


場に、6pは2枚。


そのうち1枚は下家が手出しだ。


46P→34Pの変化の結果打ち出された6Pかもしれないけれど


667もしくは、566からの6である可能性が高い。


下家のなみちゃんは、トイチーが得意なので、


中盤に切り出された牌は重なっていた可能性が高い。


そう考えると、6Pはあと一枚。


特定牌である4sを引いてなおかつ最後の1枚である6Pをというのは、


むしが良すぎるのではないか?


手牌が、もし三色になりたがっているのであれば、


3456m45p122356s


ここに5mは引かないのではないか?


ダイレクトに4Sあたりを引いてくれるのでは?


ピンフ三色ドラ1になりたがっているかな?


この5mを引いた理由を考える。


現状、リーチ棒が出ない限り、3900のロン和了はできない。


高め三色のリーチを打って、安目が出たなら、目も当てられない。


高め三色のテンパイを組んで、ダマのままドラを引いて


456m45p1122456s


こんな5200のテンパイまで待つことは、ちょっとぬるい。


というか、これもむしがよすぎる気がする。


場には、マンズがやすい。


手組は、ピンフ13枚役にドラと三色。


このオーラス、和了牌が場に打たれる可能性はどうか?


ツモ和了にかけるのであれば、ツモれる可能性が高いマンズに受けるべきだ。


つまるところ、


手牌の成長を信じるか?


確率を信じるか?



の問題だ。


自分の信じる麻雀は、前者。


けれど、マジョリティは後者ではないか?


高得点を夢見るより、確率に従う麻雀のほうが、きっと正しい。


とてつもなく長い時間、考えてしまっていた気がする。


「最後の1枚を引きあがってこその麻雀だ。」


「でも、その麻雀を真似ておかしくなってゆくひともいる。」


5mツモは問いかける。


これから、どうするのか?と。


「どうすればいいんだ。」


最大公約数の麻雀を打つか?


それとも、自分の麻雀を貫くか?


王道か?覇道か?


答えを牌に訊ねよう。


これから先の残り少ない対局について、


「自分の打ちたい麻雀を打つ」そのことが許されるか、どうか?


34556m45p122356s


5mツモから、ピンズを払う。


次巡おそらく最後の1枚である6pをツモった。


そして、次巡に4sツモ。


清々しいほどの裏目だ。


456m456p122356s ドラ1s


このテンパイとなり、なお


456m456p122356s ドラ1s


ツモ4s


となる。3000と6000だ。


これが、答えだ。


寒気がするくらい的確な答え。偶然とは思えない。


そのあと、場に合わせただけの、マジョリティな下記リーチは


34556mp1223456s ドラ1s


他家にリーチ棒を放られての4mロン和了でトップに届く。


下家は、リーチに対して手出しの6P やはり6pは持っていた。


麻雀はトップを目指すものだけれど、


どのような方法を選択するかが一番大切。


自分の平素の麻雀は、損得の精査はするけれど、


打牌の比較による優劣についてはしっかり考えるけれど


そのうえで、手牌によい仕事をさせてあげたい、と思う。


オカルトで独りよがりな想いだけれど


自分はそうやって、牌との信頼関係を築いてきた、そんな風に思うのだ。


どうせ決着をつけるなら、最終形で、最高形で、十分形で、と思う。


「場の状況」→「安全エリアの確認」→「守備」→「手牌の可能性」=たくさんの選択肢。


他家の思考を読んで、戦う。


どんなときも、おりずに、受けて戦う。


最後の1牌まで、戦う。


一か八かの勝負に逃げない。


きっと、自分はこの麻雀を全うする。


同卓者の気持ちを考えて、場の状況をふまえて牌の気持ちを考える。


自分の気持ちを重ねてゆく。


損得勘定による精査がもたらす正着。


それも、とても大切なことだけれど、自分は、それを一番大切だ、とは思えない。


麻雀は、もっともっと果てしなく神秘的なものなのだ、と信じてやまないのだ。







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スタープラチナ ザ ワールド

DIO様にあこがれ続けているその男ターミヤは、その「時をとめる」能力を習得した。


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これは、私見です。

麻雀での実戦では、本来「逡巡なし」全員ノータイムで打つべき。

「迷った牌である」という情報を卓外に落とすことは、そのままゲーム性への破壊に繋がる。

「逡巡することは、同卓者への甘え」に他ならない。

厳しいようだけれど、麻雀においては、打牌の所作も所要時間も均一でなければ、意味がない。


では自分は「逡巡のない対局」ができているのか、と言われたなら

本当に情けない話だけれど、「まだ、まだ。」である。それくらい難しいのだ。


もちろん、勉強会のように「しっかり考えること」を目的とした対局は、例外だが。


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その対局中、DIO様に憧れているその青年は、ザ ワールドを連発。

周囲の迷惑を考えることなど考えることなく、時を止め続けた。

時を止められているほうは、時を止められていることに気づかないので、

そのターミヤの打牌は、いっぱい時を止めて逡巡しまくってるくせに、実はノータイム。

他家からみると、「ノータイムのターミヤ」だ。

しかも、スタンドは、スタンドでしか倒せないので、我々は対抗の術がない。


ターミヤは、ザ ワールドを使いまくったのち、さらに、ザ ワールド。

7mを切る。7mが並ぶ。

他家から、リーチがささる。

とりとんが、リーチへのリスペクトで、場に一枚切れの手の内トイツの「中」を外す。

しっかりと受けきる応手だ。


中を切るとターミヤに刺さった。


999m白白白発発発中XXX


三暗刻、小三元、10枚の牌でハネマンである。


このような和了を、ノータイムで打てることは、本当に素晴らしい。

まさに、ホンモノという感じがするのだ。


逡巡していると、「かんじわるっ!」となる和了も、

ノータイムだと、「外連味がない」となる。


迷いがない準備された様子は、なによりも美しいと思うのだ。

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