アヤを感じる牌と、四暗刻

勉強会と実戦は繋がっていなければ、意味がない。


ただ、勉強会のときは、よりたくさんの選択肢を持てるようになるために


「できるだけ、同卓者の勉強になるように」


という気持ちが根底にあるものだから、どうしても、弛緩してしまっている。


大切なのは、現在何をするべきか?だ。


ここでいう、現在とは、もちろん「過去の総括」と「未来予測」の点である。


36000点持ちの、東3局。


配牌から、ホンイツの手牌が入る。


上家にマンズは安くなく、場に対するマンズの割合は、20%くらい。


(個人的な所感としてのマンズ占有度です。)


すこし、高いかな、というイメージ。


配牌


12455678m29s中中北


6巡目まで、ほとんど動かない。


最後に8mをツモって以下のかたち。


12245566788中中


7巡目 上家から3mが打たれる。



対面親番が今にもリーチが刺さりそうだ。


チー。


清一色へ向かうことはやりすぎだ。


あの配牌が7回のツモ牌をもらって、ここまでしかすすまなかった。


親リーの脅威がもうすぐ目の前まできている。


ここで、清一色にゆくことは、工夫や努力ではない。


高打点の可能性よりも、やらなければならないことを優先する。


8mが打たれて、ホンイツ2000点を和了する。


そのあとも36mでハネマンを和了。


マンズがよい。


南3局 70000点近い点棒がある。


1回のトップを確保するために、自分の得点のチャンスをおろそかにはしない。


1回で2回分のトップを狙う麻雀だからこそ、


平素のアグレッシブな仕掛けが可能となる。


親番 下家の8mを仕掛けて以下の形。ドラは8p。


55688p45888s ポン888m


下家からリーチがささる。


河を見るに、ピンズのメンホンチートイ


このあと、下家から打たれたドラ8pにも食いついた。


ドラが3枚みえたので、気を付けるのは、四暗刻単騎だけだ。


四暗刻単騎であれば、リーチは打たないだろう。


6pを切った次巡。


下家が、8mをコトリとツモり、8000・1600と申告をする。


8mと中の四暗刻だ。


東3局の中と8mを思い出す。


だが、36sのタンヤオドラ3を和了することもできていたわけだから、


それをいうことは、結果論に過ぎない、と思う。


だが、麻雀の牌の折り重なりは不思議だなあ、とおもう。



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実戦と勉強会

人間には、第6感というものが、あるらしい。


自分は、こういう事柄を結構意識している。


「予感」


でも、それにはちゃんと理由がある、と思っている。


例えば、ここはカンチャンに受けたなら和了しそうだ、とか、


そういう感覚は、実は刷り込まれた「過去の自分の経験によるもの」であることが多い。 


また、勉強会と実戦はイコールとはなりえない。


「一生懸命打つこと」と、「必死で打つこと」は、やはり違う。


今回の対局では、それを痛感する。


勉強会では、動画をとっているので、容易にその対局を振り返ることができる。


なので、一生懸命に打つ。その時の気持ちまでも、ちゃんと振り返ることができるように。


そうできているつもりだった。


勉強会も実戦も同じ品質で打てていると。


「観戦させていただいてもいいですか?」


背後に人を背負う。


その瞬間、ちょっとギアがあがる。


いつもより、透き通るような心地よい感覚。


123789m79p79s発発発


ドラ7m


ピンズが重なれば、8sはツモれる。


問題は、8sが先に入った時だ。


8Pでの和了は難しそうだ。


8sが入っても、カン8pでのリーチは×。


全体の河をみても、ピンズの上は重い。


カン8pが上家から出たなら、先にチーだ。


ここまでのことが、逡巡なくこなせている。


どうすればよいか、の判断にまよいがなく、遊びがなく


揺るぎない一本道が見える。


懐かしい感覚だ。


手牌と場と思考が繋がり、魔法がかかっているみたい。


自分で言うのもなんだけれど、淀みない。


まだ、自分に、こういう麻雀が打てたのか、と、喜びと安心がこみ上げてくる。


麻雀の対局こそ、ライブであるべき。


必死で淀みなく打つ感覚は、研ぎ澄まされており、理屈を超える。


打牌を撮影していないから、二度と振り返れない。


記憶の中に残せなければ、なくなってしまう「切なさ。」


だからこそ、愛しく、必死で打つ。


目的が違うのだから、勉強会では、同じ温度にはなれない。


「実戦でしっかりと戦うため」の勉強会だ。


「勉強会の教材のため」の実戦ではない。


ただ、どちらも、目的は


「淀みない 良い麻雀を打つこと。」だ。










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