ほんとのきもちはひみつだよ。 [哲学する麻雀]
某創作家が、幼少の頃のお話。
テストを白紙で先生に突き返す。
「こんなもので、何がわかるのか?ふざけるな!」
若さに任せた行動。
先生は答える。
「このテスト用紙を提出することは、君の責任だ。
白紙ならばそれでよい。
だが、君の意思の証明として、名前は記入しなさい。」
創作家は、ひどく感銘を受け「責任」という言葉を理解した、という。
自分の意思に責任を取る。
この先生は素晴しい。
この創作家の意思を、想いを尊重して矛盾を指摘、未来へ繋げる。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
私は自分の意思と言動は、いつもけっこうな塩梅で食い違っている。
けれど、少しでもその齟齬を解消したい、と考えている。
そうしないと、「自分」という認識が希薄になって、「存在」そのものが無意味になって消えてしまう気がする。
「生きている証」というもの、がもし存在するとすれば、それは「自分で考えている」ということ位。
我思う故に我あり。
けれど、私の理解は少し異なっていて、
我思い、齟齬がなく我有り。
思い感じたことを、繋げて行く事。
思考の積み重ねが、「我」である。
ただ、思うだけでは、うまく形を構成できず霧散するだけだ。
自分の意思は、大切に添い遂げなければなければならない。
責任をとるべきだ。
添い遂げるべきだ。
そう、思ったのならば。
そして、他人の想いもまた、可能な限り尊重し慈しむべきだ。
麻雀においても同じ。
矛盾なく思考を積み重ねること。
これが貫けないのならば、麻雀に限らず、物事の本質を知ることはできない。
私は、麻雀も哲学だと考えている。
というより、「思考を重ね物事の本質に迫ること」が哲学なのだから、麻雀が哲学でないはずがない。
私にとって麻雀は、無から有を創造するもの。
無形のものから、丁寧に丹念に形を作ってゆくもの。
その静謐な積み重ね。それは人間にしかできない。
ライオンさんや、虎さんだって、よい麻雀は打てない。
だからこそ、その過程が、自分にとって精一杯の内容でなければ意味がない。
楽をして、何も築けず、何も気づけず、ただ点棒を集めたところで、何の喜びもない。
親の金で、放蕩していた日々が、おもえば実はあまりのも愚劣だった、と後で気づくように。
親の金で乗り回す外車より、自分の金で買った自転車のほうが意味があるし、価値がある。
私は、点数が欲しくて麻雀を愛しているわけではない。
点数は、結果としてついてくるもの。
とにかく、私は麻雀のその神秘的な構造にもう心酔しているのだ。
なので、効率だとか、場の状況を度外視して、形を追うこともある。
非効率であること、数字の上では損をすること。そんなことは重々承知だ。
形を入れ、色を感じなければ、見えない世界もある。
たとえば、初級者が、3面待ちに取らず、
二二三四五六七八九23488
九を切ってリーチを打った、とする。
タンヤオという形。
これは、間違いだろうか?
これを間違いだといえる理由は星の数ほど。
だが、これを間違い、だと言ってしまえは、そこで試合終了だ。
(そもそも二ワン切りリーチも、四七ワンを引けば2000点。)
この初級者は、ピンフイッツーではなく、タンヤオ、という形を入れたのだ、ということ。
そのことの挑戦したのだ、ということ。
そうして、その結果、やはりピンフイッツーを入れるべきだった、とそう確信できる結果となり
本人が心から納得でき、そこに経験が生まれ、形が生まれ、そして価値が生まれる。
自分の感じたことを、信じて試してみること。
間違えたのならば、間違えたことに気づくことができる。
これには、意味がある。
けれど、不本意だ、と心のどこかで感じている麻雀は、気づけることが少ない。
目先の些細な事象にとらわれず、牌といっしょに歩む。
利のあるところに、常に喜びがあるわけではない。
損得を超えたところに喜びは、ある。
それに気づけていないだけで、心の中に溢れてる。
牌を自由に組んで欲しい。
牌の未来に夢を託して欲しい。
賢明であることよりも、自分の気持ちに誠実であることのほうが、遥かに価値がある。
自分の気持ち、想いの責任を取ること。
本当の気持ちを隠してはいけない。
私は、自分の麻雀が正しいとか、そういうことは、きっとまだまだ皆目見当がつかない。
まだまだ、道の途中である。
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みくすまほ→http://wing6877.blog.so-net.ne.jp
テストを白紙で先生に突き返す。
「こんなもので、何がわかるのか?ふざけるな!」
若さに任せた行動。
先生は答える。
「このテスト用紙を提出することは、君の責任だ。
白紙ならばそれでよい。
だが、君の意思の証明として、名前は記入しなさい。」
創作家は、ひどく感銘を受け「責任」という言葉を理解した、という。
自分の意思に責任を取る。
この先生は素晴しい。
この創作家の意思を、想いを尊重して矛盾を指摘、未来へ繋げる。
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私は自分の意思と言動は、いつもけっこうな塩梅で食い違っている。
けれど、少しでもその齟齬を解消したい、と考えている。
そうしないと、「自分」という認識が希薄になって、「存在」そのものが無意味になって消えてしまう気がする。
「生きている証」というもの、がもし存在するとすれば、それは「自分で考えている」ということ位。
我思う故に我あり。
けれど、私の理解は少し異なっていて、
我思い、齟齬がなく我有り。
思い感じたことを、繋げて行く事。
思考の積み重ねが、「我」である。
ただ、思うだけでは、うまく形を構成できず霧散するだけだ。
自分の意思は、大切に添い遂げなければなければならない。
責任をとるべきだ。
添い遂げるべきだ。
そう、思ったのならば。
そして、他人の想いもまた、可能な限り尊重し慈しむべきだ。
麻雀においても同じ。
矛盾なく思考を積み重ねること。
これが貫けないのならば、麻雀に限らず、物事の本質を知ることはできない。
私は、麻雀も哲学だと考えている。
というより、「思考を重ね物事の本質に迫ること」が哲学なのだから、麻雀が哲学でないはずがない。
私にとって麻雀は、無から有を創造するもの。
無形のものから、丁寧に丹念に形を作ってゆくもの。
その静謐な積み重ね。それは人間にしかできない。
ライオンさんや、虎さんだって、よい麻雀は打てない。
だからこそ、その過程が、自分にとって精一杯の内容でなければ意味がない。
楽をして、何も築けず、何も気づけず、ただ点棒を集めたところで、何の喜びもない。
親の金で、放蕩していた日々が、おもえば実はあまりのも愚劣だった、と後で気づくように。
親の金で乗り回す外車より、自分の金で買った自転車のほうが意味があるし、価値がある。
私は、点数が欲しくて麻雀を愛しているわけではない。
点数は、結果としてついてくるもの。
とにかく、私は麻雀のその神秘的な構造にもう心酔しているのだ。
なので、効率だとか、場の状況を度外視して、形を追うこともある。
非効率であること、数字の上では損をすること。そんなことは重々承知だ。
形を入れ、色を感じなければ、見えない世界もある。
たとえば、初級者が、3面待ちに取らず、
二二三四五六七八九23488
九を切ってリーチを打った、とする。
タンヤオという形。
これは、間違いだろうか?
これを間違いだといえる理由は星の数ほど。
だが、これを間違い、だと言ってしまえは、そこで試合終了だ。
(そもそも二ワン切りリーチも、四七ワンを引けば2000点。)
この初級者は、ピンフイッツーではなく、タンヤオ、という形を入れたのだ、ということ。
そのことの挑戦したのだ、ということ。
そうして、その結果、やはりピンフイッツーを入れるべきだった、とそう確信できる結果となり
本人が心から納得でき、そこに経験が生まれ、形が生まれ、そして価値が生まれる。
自分の感じたことを、信じて試してみること。
間違えたのならば、間違えたことに気づくことができる。
これには、意味がある。
けれど、不本意だ、と心のどこかで感じている麻雀は、気づけることが少ない。
目先の些細な事象にとらわれず、牌といっしょに歩む。
利のあるところに、常に喜びがあるわけではない。
損得を超えたところに喜びは、ある。
それに気づけていないだけで、心の中に溢れてる。
牌を自由に組んで欲しい。
牌の未来に夢を託して欲しい。
賢明であることよりも、自分の気持ちに誠実であることのほうが、遥かに価値がある。
自分の気持ち、想いの責任を取ること。
本当の気持ちを隠してはいけない。
私は、自分の麻雀が正しいとか、そういうことは、きっとまだまだ皆目見当がつかない。
まだまだ、道の途中である。
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2013-09-09 08:38
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コメント(2)
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私も麻雀を通して気付くことの大切さ、楽しさを学びました。
気付かなければ対応できません。
気付くことでいろんな事柄に対応できるようになります。
いろんなことに気付き対応していく。
人生を楽しく生きていための術ではないかと
このごろは感じています。
by mino (2014-03-12 15:29)
同意します。人生が実は捨てたものではなく、「価値のあるものだった」と気づけるかどうか?それが、その人の人間としての力ではないか、と私は思います。そしてそれは、幸せにたどり着く力です。
例えば、抜けるような青空の美しさに気づき、感動すること。
例えば、溢れるほどの家族の愛の気づき、泣き崩れること。
すべて、気づくことから始まると思います。
そして、いつか、生まれてきた意味にまで、気づくことができるのではないか、とまで思います。
by ゆうゆう (2014-03-12 20:17)