どこにも届かないオーラスから [TSUKASA会]
チャンタ忘れてる。 [TSUKASA会]
お金と麻雀
賭けていないから、テキトーな牌が飛び出てくる。
そういう麻雀を打つことも、見てることも辛い。
そういうテキトーな人は、お金をもらっている仕事しか
ちゃんとできないタイプ。
(そういう人は、お金をもらっている仕事もちゃんとできてない)
例えば、賭けていて痛みを伴う麻雀であれば、
そんなテキトーな牌は切らないんじゃない?
などと、思わずにはいられない。
賭けて打つほどの、強い気持ちはないから、
賭けずに牌で遊んでる人たち。
賭け麻雀がダメなのは、違法だから。
ちゃんと打つのであれば、賭けようが賭けていまいが、おんなじ麻雀。
同卓すれば、麻雀への想いは伝わる。
麻雀をなめている人はすぐにわかる。
こっちは、遊びではなくちゃんと向き合っているつもりだから。
まあ、麻雀始めたころは、そうではなかったけれど。
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麻雀が打ちたい。
仲間打ちでメンツが(現在)揃わない。
今すぐ麻雀を打ちたい。
だから、本当にやむを得ずフリーに行った。
すんごい意地の悪いおっさんや
うっふんなマダム、ポンコツじじい。
どんなメンツであっても
麻雀を打ってくれるだけで感謝。
まっすぐ歩けないほどやられて
それでも、「麻雀を打てたから」いいや。となる。
麻雀を「誰と打つ」かは特に気にしないそんな感じの
麻雀覚えたての頃だった。
お金があれば、打てる。
お金がなければ、負けた時に払えないので 打てない。
打ちたいのでバイトをする。
働きまくってお金を貯めて打ちにゆく。
麻雀を打つためにお金がある。
「お金がない」と「打てない」。
調子が良ければ、お金が増える。
お金が増えたら、長く打てる。
お金は麻雀を打つための
「プレイングチケット」に過ぎない。
「打つこと」が目的。
「打つことができれば」他に望むものはなかった。
先ヅモしようが、三味線ひかれようが、
まったく気にならない。
そういうものも含めて「麻雀」だ、と思っていたから。
麻雀の入り口はみんなそういう気持ちなんだろう、って思う。
麻雀のためにお金を使う。麻雀が好きだから。
賭け麻雀の勝った、負けた、も合わせて。
でも、そのうちのほんの少しのひとが、
「お金」のために「麻雀」を打つようになっちゃうのだ。と。
勝てば、お金が増える。
その「お金」に、麻雀以上に魅力を感じてしまっちゃったのだ、と。
くりっく願います↓
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邂逅
麻雀への想い。
他人も自分と違わない揺るぎないもの、だ、と信じていた。
でも、それは幼稚な盲信で、自分だけの祈り。
現実は果てしなく残酷だ。
オーラスまで、届く麻雀が打ちたい。
他人の時間を奪わない、卓を回せるメンツ。
それを求めて、少しでもそういうルールで打てる雀荘へ。
高い交通費と時間をかけて向かう。
半荘4回。
すべてオーラスまで届いた。
当たり前だけれど、
卓の進行をみんなで意識すれば
「時間内に終局」は
そんなにむつかしいことではない。
その私にとって最後の半荘。
対局開始から、少し。
メンバーさんに代わって
東2局から、参加されたお嬢様。
麻雀が打ちたくて、大急ぎで駆け付けた様子。
打ちたくて仕方がないその気持ちが、本当に痛いくらいわかる。
真剣な表情で、牌と向かいあい、たいせつに打っている。
・・・・・・・・・・・・・・
ただ、いかんせん、動作が遅い。
その慣れないお嬢様に合わせて、卓の打牌スピードが下がる。
拙いであろうその麻雀に、みながあわせるイメージ。
卓の進行はおそろしく遅くなってゆく。
わたしひとりが、動作を早くしたところで、どうにもならない。
結局、錯誤行為が混ざって東3局での終局となった。
麻雀の棲み分けの問題だ、な、と思った。
上級者と初級者を混在させてはいけない。
どちらも不幸になる。
これが、勉強会や初級者向けの教室であれば
麻雀の所作が拙いことは、何の問題もない。
これから、「できるようになればよい」だけだから。
けれど、いわゆる上級者卓で所作が拙いことは、致命的に不幸だ。
「自分の課題すらみつからないまま」ただ打つだけの時間となる
可能性も多いからだ。
点数申告。
点棒の授受。
これらは、麻雀の勝った負けたより、はるかに大事なこと。
どうして、こんな当たり前のことから、
そこを入り口にして麻雀に入れないのだろうか?
理由は「麻雀は簡単だ」とみなカンチガイしているから、ではないだろうか?
役がわかれば打てる、と。
牌を切ることさえできれば、麻雀が打ててしまう、からだ、と思う。
でも、そうではない。
麻雀が4人でつくっていくゲームだ、ということを考えたならば
大切なことは卓の進行だ。
対人ゲームなのだから、作法はありきだろう。
ほとんどのひとが、中途半端に打てるものだから、
このことを疎かにして成長して、
決して気づくことはない。
いつか、きっと自分で気づくだろうと、思っていても、
私の経験上、自分でそのことに気づくことができる人間に
出会ったことはない。
自分も気づかなかった。
師匠に激しく指導をいただいて、本当にゼロから直して
やっと意識できるようになったくらいだから。
でも、初級者であれば、正しい入り口から
麻雀に入ることができる。
せっかくのチャンスなのに。
;;;;;;
終局後、お嬢様が感想戦をされてる。
「発がアンコウで・・・」
と、真剣な表情で。
きっと麻雀が大好きなんだろうあ。
そんな風に思いながらも、
麻雀というゲームに対して
ちゃんとした半荘にならなかったことへの
なんとも収まりの悪い気持ちがこみ上げてくる。
せっかく、みんな麻雀好きなのに
ちっともうまくいかないなあ。
自分の望む麻雀は打てない。
自分の言葉も他人には全く届かない。
麻雀に対する粛々とした想い。
これを抱えたまま、麻雀に対して
「他人には他人の麻雀があるのだから」
「いつか気づいてくださる」
なんて、そんな悠長なことを言っていたなら
人生の時間が間に合わないではないか?
やはり、自分は自分の望む麻雀を打ちたい。
麻雀はひとりでは打てないから、
自分と近い意識の麻雀観を持っているひとを
さがしにいかなきゃいけない。
探しにいかなければ、出会えない。
リズムのよい打牌だけが響く。
みな所作はよどみない。
頭で考えることはすべてあらかじめ準備できている。
卓との一体感。
呼吸もはばかられるくらいの集中域。
自分は、そういう麻雀が打ちたいのだ。
抑えられない想い。
このままでは死んでも死にきれない。
新しい邂逅のために、これからの時間を使おう、と思った。
君の知らない物語
*無駄な動作をなくして、
逡巡なく打って、
点棒の申告授受を速やかに
親番を捌いて
4人全員でその半荘のオーラスを目指す。
答え合わせの終着駅へ。
麻雀は4人で作りあげる
その仕事と営みの結実した姿だから、価値があるのだ、
と私は思う。
時間制限のある対局であっても、
オーラスを迎えることを目指すべきなのだ。
私はそう思う。
・・・・・・
「残り一局です!」
タイマーが鳴り、終局の時がくる。
「東2局ですよ、いま。
連荘されちゃいまして」
連荘された、のではなくて
連荘させた、なのでわ?
オーラスって、南4局
ぜんぶで8局あるとして、
全体の4分の1。
人生でいうと、20歳で終わりを迎える感じ。
無念な感覚しかない。
麻雀は4人でオーラスまでの物語を、紡ぎあげるものだ。
そう信じる私は、オーラスまで届かない半荘は
ノーゲームでも構わない、とまで思う。
東場で、物語は始まる。
いただいた配牌で、精一杯戦う。
東場の親番。
最初の勝負所。
チャンスとピンチが同時に訪れる。
自分の優位性を踏まえて、
最終決着であるオーラスを想定して
押し引きをはんだんする。
南場の親番。
クライマックス。
東場からの展開を受けてつなげて戦う。
南場のオーラス。
一番盛り上がるオーラス。
悔いの残らないように
東場からの麻雀を精査。
よい余韻を残せるように。
これが、東2局とかで終わってしまうなんて
物語になっていない、っつーの。
まだ、見ぬ、紡げなかった物語が
どれほど消えてしまっているのか?
オーラスまで届かない麻雀は麻雀じゃない。
極論かもしれないけれど
自分にとっての麻雀は
しっかりとした意味のある物語でなければならない。
完全に私見だ。
そういう物語を4人で作っていきたい。
完全に自分だけの祈りだ。
でも、譲れないし、譲るつもりもない。
だから、自分一人でも
同卓者が「オーラスまで卓を回すこと」に
協力してくれなくても
麻雀を物語として成立させなければならない。
ちゃんと、昇華しなければ、
東1局の始まりが、道中があまりにも不憫ではないか。
どこで、打つ時でも
時間制限のある対局では
いつもいつもそう思って打っている。
自分の尊敬する打ち手達は、
みなそうやって仕事をしてきた。
良い悪いではない。
これは、自分の麻雀観なのだ。
強要はできない。
いつか、半荘をすべて繋げて
同卓者と振り返ることができる日が来るから。
いつなのか?
果てしない寂寥感に包まれる。
麻雀は、4人で打つものではなくて、
1人で打つものでなんじゃないか?
自分の麻雀だけが、ポツンと群れから
離れてしまっているような、そんな風景の中にいる。
とまで思う。
発声の意味
個人的には、マナーは躾だと思う。
例えば、 仲間うちでの麻雀なら
発声を忘れようが
誤ってロン!してしまおうが、
それは、同卓している4人が
「よし!」としていれば
何の問題もない、と思う。
仲間うちで、そういうふわふわなゆるさも
(そういう意味では)麻雀の楽しみのひとつだろう。
けれど、他人と打つときは、そうはいかないだろう。
他人に対する礼儀として、
身に着けていなければならない、当たり前だ、と思う。
長考、逡巡、全て
他人に迷惑をかける可能性のあることは
全て細心の注意を払うべきだ。
そういうことを疎かにして
ふんぞり返っていることは
あまりにも見苦しい。
気が付かない、というのであれば
気が付かないという、そのことが論外なのだ。
親の躾がなってない。
お里が知れるわ。恥ずかしい。
例えば
発声をしない。
他人と同卓していて、発声をしない。
そのことに気づかない。
発声をしなくても、許されると思っている。
他人から許されると思っているし、
自分でも自分を許してる。
発声をせずに、牌を倒して
仕掛けを主張する。
声がないために、ツモ番は先のひとまで進んでる。
結果、先づも状態となる。
知ってはいけない牌の情報がこぼれる。
ゲームが壊れる。
このことの「罪の重さ」がわかっていない。
麻雀なんて、打つことはカンタン。
けれど、
「また、打ちたい」
と思ってもらえる麻雀を打つことは
ホントウにホントウに難しい。