君の知らない物語

 


*無駄な動作をなくして、


逡巡なく打って、


点棒の申告授受を速やかに


親番を捌いて


4人全員でその半荘のオーラスを目指す。


答え合わせの終着駅へ。


麻雀は4人で作りあげる


その仕事と営みの結実した姿だから、価値があるのだ、


と私は思う。


時間制限のある対局であっても、


オーラスを迎えることを目指すべきなのだ。


私はそう思う。


・・・・・・


「残り一局です!」


タイマーが鳴り、終局の時がくる。


「東2局ですよ、いま。


連荘されちゃいまして」


連荘された、のではなくて


連荘させた、なのでわ?


オーラスって、南4局


ぜんぶで8局あるとして、


全体の4分の1。


人生でいうと、20歳で終わりを迎える感じ。


無念な感覚しかない。


麻雀は4人でオーラスまでの物語を、紡ぎあげるものだ。


そう信じる私は、オーラスまで届かない半荘は


ノーゲームでも構わない、とまで思う。


東場で、物語は始まる。


いただいた配牌で、精一杯戦う。


東場の親番。


最初の勝負所。


チャンスとピンチが同時に訪れる。


自分の優位性を踏まえて、


最終決着であるオーラスを想定して


押し引きをはんだんする。


南場の親番。


クライマックス。


東場からの展開を受けてつなげて戦う。


南場のオーラス。


一番盛り上がるオーラス。


悔いの残らないように


東場からの麻雀を精査。


よい余韻を残せるように。


これが、東2局とかで終わってしまうなんて


物語になっていない、っつーの。


まだ、見ぬ、紡げなかった物語が


どれほど消えてしまっているのか?


 オーラスまで届かない麻雀は麻雀じゃない。


極論かもしれないけれど


自分にとっての麻雀は


しっかりとした意味のある物語でなければならない。


完全に私見だ。


そういう物語を4人で作っていきたい。


完全に自分だけの祈りだ。


でも、譲れないし、譲るつもりもない。


だから、自分一人でも


同卓者が「オーラスまで卓を回すこと」に


協力してくれなくても


麻雀を物語として成立させなければならない。


ちゃんと、昇華しなければ、


東1局の始まりが、道中があまりにも不憫ではないか。


どこで、打つ時でも


時間制限のある対局では


いつもいつもそう思って打っている。


自分の尊敬する打ち手達は、


みなそうやって仕事をしてきた。


良い悪いではない。


これは、自分の麻雀観なのだ。


強要はできない。


いつか、半荘をすべて繋げて


同卓者と振り返ることができる日が来るから。


いつなのか?


果てしない寂寥感に包まれる。


麻雀は、4人で打つものではなくて、


1人で打つものでなんじゃないか?


自分の麻雀だけが、ポツンと群れから


離れてしまっているような、そんな風景の中にいる。


とまで思う。


 



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