邂逅

 


麻雀への想い。


他人も自分と違わない揺るぎないもの、だ、と信じていた。


でも、それは幼稚な盲信で、自分だけの祈り。


現実は果てしなく残酷だ。


オーラスまで、届く麻雀が打ちたい。


他人の時間を奪わない、卓を回せるメンツ。


それを求めて、少しでもそういうルールで打てる雀荘へ。


高い交通費と時間をかけて向かう。


 半荘4回。


すべてオーラスまで届いた。


当たり前だけれど、


卓の進行をみんなで意識すれば


「時間内に終局」は


そんなにむつかしいことではない。


その私にとって最後の半荘。


対局開始から、少し。


メンバーさんに代わって


東2局から、参加されたお嬢様。


麻雀が打ちたくて、大急ぎで駆け付けた様子。


打ちたくて仕方がないその気持ちが、本当に痛いくらいわかる。


真剣な表情で、牌と向かいあい、たいせつに打っている。


・・・・・・・・・・・・・・


ただ、いかんせん、動作が遅い。


その慣れないお嬢様に合わせて、卓の打牌スピードが下がる。


拙いであろうその麻雀に、みながあわせるイメージ。


卓の進行はおそろしく遅くなってゆく。


わたしひとりが、動作を早くしたところで、どうにもならない。


結局、錯誤行為が混ざって東3局での終局となった。


麻雀の棲み分けの問題だ、な、と思った。


上級者と初級者を混在させてはいけない。


どちらも不幸になる。


これが、勉強会や初級者向けの教室であれば


麻雀の所作が拙いことは、何の問題もない。


これから、「できるようになればよい」だけだから。


けれど、いわゆる上級者卓で所作が拙いことは、致命的に不幸だ。


「自分の課題すらみつからないまま」ただ打つだけの時間となる


可能性も多いからだ。


点数申告。


点棒の授受。


これらは、麻雀の勝った負けたより、はるかに大事なこと。


どうして、こんな当たり前のことから、


そこを入り口にして麻雀に入れないのだろうか?


理由は「麻雀は簡単だ」とみなカンチガイしているから、ではないだろうか?


役がわかれば打てる、と。


牌を切ることさえできれば、麻雀が打ててしまう、からだ、と思う。


でも、そうではない。


麻雀が4人でつくっていくゲームだ、ということを考えたならば


大切なことは卓の進行だ。


対人ゲームなのだから、作法はありきだろう。


ほとんどのひとが、中途半端に打てるものだから、


このことを疎かにして成長して、


決して気づくことはない。 


いつか、きっと自分で気づくだろうと、思っていても、


私の経験上、自分でそのことに気づくことができる人間に


出会ったことはない。


自分も気づかなかった。


師匠に激しく指導をいただいて、本当にゼロから直して


やっと意識できるようになったくらいだから。


でも、初級者であれば、正しい入り口から


麻雀に入ることができる。


せっかくのチャンスなのに。


;;;;;;


終局後、お嬢様が感想戦をされてる。


「発がアンコウで・・・」


と、真剣な表情で。


きっと麻雀が大好きなんだろうあ。


そんな風に思いながらも、


麻雀というゲームに対して


ちゃんとした半荘にならなかったことへの


なんとも収まりの悪い気持ちがこみ上げてくる。


せっかく、みんな麻雀好きなのに


ちっともうまくいかないなあ。


自分の望む麻雀は打てない。


自分の言葉も他人には全く届かない。


麻雀に対する粛々とした想い。


これを抱えたまま、麻雀に対して


「他人には他人の麻雀があるのだから」


「いつか気づいてくださる」


なんて、そんな悠長なことを言っていたなら


人生の時間が間に合わないではないか?


やはり、自分は自分の望む麻雀を打ちたい。


麻雀はひとりでは打てないから、


自分と近い意識の麻雀観を持っているひとを


さがしにいかなきゃいけない。


探しにいかなければ、出会えない。


リズムのよい打牌だけが響く。


みな所作はよどみない。


頭で考えることはすべてあらかじめ準備できている。


卓との一体感。 


呼吸もはばかられるくらいの集中域。


自分は、そういう麻雀が打ちたいのだ。


 抑えられない想い。


このままでは死んでも死にきれない。


新しい邂逅のために、これからの時間を使おう、と思った。



麻雀 ブログランキングへ


nice!(0)  コメント(0)