「焼うどん」と錯誤行為
打ちたいひとと、打てる幸せ。
麻雀は、4人揃わないとだめ。
今回は、タイミングが合わず、みなさんと麻雀を打つことはできないなあ、
そう思いながらよろよろと、道場を後にする。
「旧交を温めるため」酔いを求めてネオンへ消える。
不思議な夜だ。無性に、「焼うどん」が食べたい。
「焼うどん」なんて、好きだったことないのに。
適当な暖簾をくぐる。
串を数本と、ビール、焼うどん。
焼き鳥は、暖かいけれど、冷たく。
焼うどんもコンビニのほうが美味しいレベル。
何もかも冷たくて、さらに熱を奪われる。
郷愁の哀愁は、いつも「どこかへ還りたい。」
少し身がちぎれたような寂しさを、「思い出」で「パテ埋め」する。
80年代。魂の高揚する喧噪。
夢を夢見ることができる夢のような時間を、令和の世に重ね、
現在、この瞬間から、どうするか?を啓蒙する。
いい時代だったんだよね。
いい時代だった。
時間は21時。ビールを1杯。
ぼんやり道場を覗くとF岡先生が。
店内にはキリリとしたK畑さんの姿もみえる。
私のよく「しらないひと」が他にひとり入って、の望外の対局となった。
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20年前なら、こんなコンディションではないだろう。
疲れも、酔いも吹き飛んで、夢中になっていたはずである。
最近、麻雀の精度が神がかっているから、それでも、何とかなる、
と思っていたことが、大いなる油断で、勘違い。
ビールの1杯くらい、どうってことない、って。
そうおもっていたの。
あと、道場でおふたりと打てることが嬉しくて。
最初のほほえみはどこへやら。
鬼気迫る打牌に、気持ちが、どんどん入ってゆく。
牌の変化への準備。
他家の逡巡、全て拾えている。
と思っていた。
最初の半荘。
南2局。
毎回、嶺上牌14枚が切り取ってあったので、
道場は、そういう文化になっているのだ、と勘違い。
7トンではなく、8トンで切っていたことは、よく確認すればわかること。
残り2牌を残した状態で、終局と勘違い。手牌を開き、チョンボ。
トップ目から、消え去る。
とは言え、念のために7トンの残りで嶺上牌が切れているか、を確認するべきだった。
次の半荘の南3局。
上家が、舌打ちおまけつきで、リーチ。
不本意なリーチと読み切り、ぶっこんだら
本命の亜両面で、裏ドラもくらい、これまた地の底に沈んだ。
舌打ちを勝手読みした自分の判断ミス。
試行回数が少ない状態での、相手の所作からの情報ほど、信頼できない。
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とはいえ、せっかくの魂の対局を、私が自分の手で破壊してしまった。
F岡先生も、K畑さんも、自分の求めてやまない温度。
「魂の麻雀」が標準装備されている。
例えば、あしたガッパができきて、大あばれ! 人類滅亡で
あれが、最後の麻雀になってしまったら、死んでも死にきれない。
対局のあと、
豪華客船のような車の中で、
K畑さんは、強いやつがいなくて、つまらない、とこぼす。
その「強い」の意味をちゃんと理解できているはずの自分は、うまくうなずけない。
あのとき、20年前、麻雀の勉強の途中で、故郷を離れた。
でも、自分なりに、一日も休まず勉強を重ねてきた。
その結果、結局は、ぼんやりと、どこにも届いていないそんな気がする。
それが、今回の2つの失態だ。
チョンボは論外だし、人読みで、局面を塗り替えたことなど、ついぞ、なかった。
現在の自分は、本当に出来がよい。
ピーキーに調整されてはいるけれど、自分には合っていて乗れてる。
勉強ばかりの20年間を再び、実戦型に偏重したい。
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麻雀を勉強する、こと、そのことで、一番大切なことは実戦だ。
実戦で、どれだけ相手の心に響くか、である。
どんな相手だろうと、どんな時だろうと。
あのチョンボも、亜両面の5pもないわ~。
親番落ちの南場をなんだと思っているのか?
F岡先生は、テンパイ開示でトップだとわかっていても、
3枚目のカン7sを和了。
自分は、素晴らしい謙虚さ、だと思った。
トップを取るためだからと言って、やりすぎはよくない。
牌にひどいことはしないほうがよい。
そこで、7sがこぼれるなら、それは、麻雀の答えなのだから。
それにしても、K畑さん、キリっとして、凛々しかった。
おれも、もう少し、キリッとします。