手牌を慈しむ

不謹慎との言葉も、あるだろう。だが、しかし、私の師匠は自分の手牌を「かけがえのない大切なもの」だという。「自分の子供のようなものだ」と。
自分の子供の可能性を信じる。
だから、たとえば、手牌の成長を止めるようなリーチは打たない。子供にヒドイことはしない、だから、ヒドイ手順で手役を狙うこともしない。
「可能性を残して、その子供の未来を見つめて共に歩むイメージ」だ。
だから、しつこいようだけれど、師匠はリーチをほとんど打たないし、仕掛けもほとんどない。
この「自分の手牌を愛でつつも、やりすぎない」この独特の感覚。麻雀のバランス感覚は、個性があり、故に、個人差があり正解はない。
私は、師匠のような我慢は持ち合わせることができないまま、相手の手牌の成長を止めることができるのであれば、自分の手牌の成長を止めるリーチだって打つし、仕掛けで場を制圧できるのであれば、手牌が例え1枚になったとしても、やはり息を吸うように仕掛けるだろう。これは、私のバランス感覚だ。
手牌の成長を止めるリーチは失くしたいと思うし、仕掛けない選択肢も持ちたいと思うのだけれど、バランスを失いそうだし、やめられそうにない。
師匠から、「目を覆いたくなるようなヒドイ麻雀」と言われ「クラッシャー」の称号も頂戴した。
せっかく授かった形を壊しまくっている、と。おっしゃることはよく理解できる。
自分は、破壊の先に創造がある、その風景が好きなのだ。場にあわせた外連味のない破壊の先で、奇跡のような牌の動きに出会うことがある。そこが、堪らなく自分にとっては、魅力的なのだ。
壊さなければたどり着けない未来。もちろん、その代わりに、その犠牲となってしまった未来もあるのだろうけれど。
うまくいったことや、工夫をしたけれど、うまくいかないことが、幾度も幾度も絡みあって、いくつもいくつも干渉して一つの風景になる。
うまくいきそうにないからこそ、工夫をしてうかがえる未来、なんてよい響きではないか。


四人全員の手牌が読めない自分は、仕掛けて景色に入り込む。面前だと安全マージンがありすぎて、他家の手牌推察が濁る。「危ないの嫌だからおりちゃお!」すぐに楽なほうへと転がってしまう。だから、感覚を鈍くさせることがないように、一歩踏み込む。安全なところでだけ戦うことや、負けないように打つことなんて、誰にだってできる。危険なところを安全なところにつくりかえる努力。負けないように打つ、のではなくて、重い深度のある麻雀を打って、その結果を受け止める。自身の心がけひとつで、世界はいくらでも変わる。
麻雀のおもしろさは、この無限の可能性にある。

私は手牌を自分の子供なんて思えない。自分にとって麻雀は、もっと掴み所がなく、予想もできない果てしない存在。神々しさまである。
「いろんなことを考えるまでもなく、卓に溶け込むような感覚」その静謐な心地良さを忘れることができずに、現在も麻雀を打っている。

というわけで、最近の私のテーマは、「致命傷だけは嫌だけどめっちゃ戦う!」これだ。基本東場は高打点を目指して打って、基本ゼンツセンツ!南場でその修正。これまでのように、リーチと仕掛けで、場の状況をはかるのではなく、手牌と他家の捨て牌で場の状況をはかり、リーチや仕掛けで、答え合わせをするようにしたい。それを心がけていると、これまでよりも少し精緻な場の濃淡を掴むことができるようになるはずた。
自分で自分のチャンスを潰さない。自身手牌に高打点をみつけ、安手相手には、ガンガンぶつけていく。何回振り込んでも、致命傷でなければ問題ない。自身の手牌を高打点で組めば、いくらふりこんでも、結果相手を組伏すことができるはずだ。また、自身が安手でも、可能であれば、(致命傷を追わないのであれば)相手の勝負手を潰すために、ぶつけていく。
自分のチャンスを生かし、相手のチャンスを潰すのだ。その為の方法は、気をつけていれば、いくつもいくつも転がっている。手牌の、配牌の良し悪しなど、些事だ。
「どんな状況でも楽しみたい」ものだ。


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