特級呪物 [閑話休題]

 


予感。


なんだか、いいことありそうだ。


とか、


今日はなんだか、嫌な様子の一日になりそうだ、


とか。


そういう「なんとなく」ではない、「感覚」にとらわれることがある。


そういうことって、誰でも経験あると思う。


麻雀で例えるのであれば、


この手は、トイツひとつしかないけど、七対子になりそうだ。


とか、


この258ソウはいなさそう。とか、


シャボのほうがよさそう。とか。


そういう感覚に包まれることもある。



でも今回は、そんなレベルではなかった。




競技麻雀では、テンパイ料の価値が大きい。


カミシモ3000点くらいの差が生まれる。


だから、形式テンパイをとる。

ハイテイやホウテイ以外、

和了することができないのだから、慎重に。


せっかく形式テンパイを組めているのであれば、

そのテンパイを維持したい。


テンパイが取れなくなるツモについては、ノーサンキューなのだ。


 


44566m567p88s


あと一回のツモ。


ドラの西は場に二枚とんでる。


そんなに高得点を組めている他家もいない様子だ。


最後の自分のツモ。


これが、


「あたり牌のような気がする」


よくわからないけど、


確信に近いくらい「そう感じる」なんで?


ものすごく嫌な予感がする、説明つかないけど。


上家の8pをチー。打5p


ツモ牌を拒否する。


すると、私の切った5pを上家がポン。


打6m


「ツモりたくない」のに


また、「あたり牌のような気がする牌」を


ツモる羽目に。


上家の6mを仕掛けて、もう一度「ツモ牌拒否」


も考えたけれど、マンズは、ちょっと打ちにくい。


まあいい、「あたり牌のような気がする牌」を


ツモってみてから、考えよう。


ツモると9pだった。


6pを全員切っていて、場にも9pは一枚。


国士無双の可能性はつぶれている。


「なーんだ。こんな9p.当たるはずないわ」


あの予感はなんだったんだろう、変なの?

と思って9pを切る。


ロン!


下家の七対子ドラドラ6400にぶちささりました。


生き物には、もともと危険察知の能力が備わってる。


「兎」野生の闘牌、読みなおして、出直します。


 


 


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どんなときも

どんなルールでも構わない。

どんな相手でも変わらない。

どんなときも、やることはかわらない。

やらなければならないことをやるだけだ。

ルールや相手によって、さくせんを色々考える。

そのことも麻雀の楽しみのひとつ。

赤アリ麻雀の成績が芳しくない。

理由は「押すべきところで押せてない」からだ。

自分で自分のチャンスを潰している。

打点のフリハバが大きいから、

振り込むことが怖くて仕方ない。

けれどだからこそ、自分のチャンス手で

他人のチャンス手を潰すことが必要になる。


赤あり麻雀では、赤牌のカウントが大切だ。

不自然に切られた4と6。

赤を受けためのターツ固定も含めて、

そこにその牌を切る理由があることを、

考えることは大切。

けれど、何よりも大切なものは、大局感だ。

押すべきところでは、しっかりと押すこと。

これは、ルールによっては、

大きくその深度が変わるけれど、

強者は等しくこれを持っていて、

自分はそれを学びたくて麻雀を打っている。

赤あり、25000、30000返しのワンスリー

トップ以外はあんまり意味がないルールだ。

南2局親番限定ちょいプラ

334455赤m13p68 sポン東東東

加カンでドラ3mがのり、12000へ

全つっぱだ。

下家から、リーチがささり

対面も押しぎみ。

ここに、7sをひく。

334455赤m13p68 sポン東東東

1p3pどちらかを切る。

リーチの下家の河には4p。

1pのほうがとれるから

3pを切って1pだわ。全つっぱだ。全つっぱ。

だが、待てよ?

「余計な読み」が入る。

この下家の4pちょっと怪しくない?

445赤?からの4じゃない?対面も押してるし、

横移動とあるし。

二人が押してる局面なら、リスクは増えて

自分のあがれる確率は下がるし。

それに横移動なら、残り2局にチャンスは残る。

1巡たてば、新しい情報が落ちて、景色もかわる。

局面的には、大局的には押すべきところで

その判断を誤る。

麻雀はね、今あるチャンスを最大限に生かさないと

ダメなゲームだ。

1pを切って3p待ちにした直後、まるで用意されたよ

うに、1pが下家から打たれる。

自身の12000のチャンスを自ら捨てて、2着を拾いま

した。取れるトップを追えない人間は、まあ勝てな

いすよね。

押すときは、押す。

そんな簡単なことが、難しい。

麻雀は難しい。

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感性で打つ麻雀


事象そのものへ。
私が、昔から傾倒している慶應大出身の哲学者、池田晶子。彼女の書籍を読み重ねているうちに、麻雀に対しても哲学が生まれる。
物事そのものを考える。頭がひっくり返るくらい考える。考えるのだけど、それは全て自分の頭のなかの出来事。頭のなかで考えていることは「確かに存在する」。形而上に、という表現になるが確かに存在する。
ただ、その「考えて理解すること」の他に人は、事象そのものを「感じる力」を持っている。有名な哲学者カントの言葉を借りるのであれば、前者は「悟性」。後者は、そう「感性」というやつだと思う。
自分は、自分には、言葉では説明できない「感覚」というものがある。きっと誰にでもある。これを、理屈で押さえつけてしまうと禁忌をおかしたような気持ちになる。この「感覚」を「感性」と呼ぶなら、この「感性」を大切にするために、自分は「麻雀の理屈」を勉強している。「理屈を越えた感性」を慈しむため。

「感性を蔑ろにしない麻雀」を打ちたい。
 私見だけれど、麻雀は損得を学ぶだけで、満足のいく結果がでるようなつまらないものではない、と思う。
 「ここは、勝負局だ。」「ここは、危ない」「牌がいくなと行っている。」漫画みたいだ、との批判が在ろうと、問答無用な感覚が体を支配する。

7899m78p122sチー978mドラのないこの形。上家親番の9mをチーする。ピンズの上も安く親の現物9mを2
枚抱える仕掛け。場に安全な牌をたくさん抱えての純チャン三色の予定だ。ここに、下家から2sが飛び出る。手牌は99m78p122s「これを仕掛けないとダメだ。」「これを仕掛けたなら、今日の麻雀はうまくいく。」その感覚に包まれる。考えるよりも、体が先に動く。2sポン。これは、従わないと後悔する感覚だ。守備力はある。99m78p手牌4枚全て安全だ。3900を1000にする仕掛けだが、3sを引いて純チャンになるまえに、2sが打たれたことをどう感じたか?これに、この感覚に、従うことができないのであれば、それは自分の麻雀ではない。ちゃんと「卓に乗れている」感覚。
大切なことは、「景色のなかに」「風景のなかに」ある。風景に溶け込む感覚。「形而下の確認できる事象」と「形而上の蒙昧な概念」がきれいに重なる瞬間。
圧倒的な「事象そのもの」は、損得勘定で「感性」を枯らさないように、語りかけている気がしてならないのだ。

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手牌を慈しむ

不謹慎との言葉も、あるだろう。だが、しかし、私の師匠は自分の手牌を「かけがえのない大切なもの」だという。「自分の子供のようなものだ」と。
自分の子供の可能性を信じる。
だから、たとえば、手牌の成長を止めるようなリーチは打たない。子供にヒドイことはしない、だから、ヒドイ手順で手役を狙うこともしない。
「可能性を残して、その子供の未来を見つめて共に歩むイメージ」だ。
だから、しつこいようだけれど、師匠はリーチをほとんど打たないし、仕掛けもほとんどない。
この「自分の手牌を愛でつつも、やりすぎない」この独特の感覚。麻雀のバランス感覚は、個性があり、故に、個人差があり正解はない。
私は、師匠のような我慢は持ち合わせることができないまま、相手の手牌の成長を止めることができるのであれば、自分の手牌の成長を止めるリーチだって打つし、仕掛けで場を制圧できるのであれば、手牌が例え1枚になったとしても、やはり息を吸うように仕掛けるだろう。これは、私のバランス感覚だ。
手牌の成長を止めるリーチは失くしたいと思うし、仕掛けない選択肢も持ちたいと思うのだけれど、バランスを失いそうだし、やめられそうにない。
師匠から、「目を覆いたくなるようなヒドイ麻雀」と言われ「クラッシャー」の称号も頂戴した。
せっかく授かった形を壊しまくっている、と。おっしゃることはよく理解できる。
自分は、破壊の先に創造がある、その風景が好きなのだ。場にあわせた外連味のない破壊の先で、奇跡のような牌の動きに出会うことがある。そこが、堪らなく自分にとっては、魅力的なのだ。
壊さなければたどり着けない未来。もちろん、その代わりに、その犠牲となってしまった未来もあるのだろうけれど。
うまくいったことや、工夫をしたけれど、うまくいかないことが、幾度も幾度も絡みあって、いくつもいくつも干渉して一つの風景になる。
うまくいきそうにないからこそ、工夫をしてうかがえる未来、なんてよい響きではないか。


四人全員の手牌が読めない自分は、仕掛けて景色に入り込む。面前だと安全マージンがありすぎて、他家の手牌推察が濁る。「危ないの嫌だからおりちゃお!」すぐに楽なほうへと転がってしまう。だから、感覚を鈍くさせることがないように、一歩踏み込む。安全なところでだけ戦うことや、負けないように打つことなんて、誰にだってできる。危険なところを安全なところにつくりかえる努力。負けないように打つ、のではなくて、重い深度のある麻雀を打って、その結果を受け止める。自身の心がけひとつで、世界はいくらでも変わる。
麻雀のおもしろさは、この無限の可能性にある。

私は手牌を自分の子供なんて思えない。自分にとって麻雀は、もっと掴み所がなく、予想もできない果てしない存在。神々しさまである。
「いろんなことを考えるまでもなく、卓に溶け込むような感覚」その静謐な心地良さを忘れることができずに、現在も麻雀を打っている。

というわけで、最近の私のテーマは、「致命傷だけは嫌だけどめっちゃ戦う!」これだ。基本東場は高打点を目指して打って、基本ゼンツセンツ!南場でその修正。これまでのように、リーチと仕掛けで、場の状況をはかるのではなく、手牌と他家の捨て牌で場の状況をはかり、リーチや仕掛けで、答え合わせをするようにしたい。それを心がけていると、これまでよりも少し精緻な場の濃淡を掴むことができるようになるはずた。
自分で自分のチャンスを潰さない。自身手牌に高打点をみつけ、安手相手には、ガンガンぶつけていく。何回振り込んでも、致命傷でなければ問題ない。自身の手牌を高打点で組めば、いくらふりこんでも、結果相手を組伏すことができるはずだ。また、自身が安手でも、可能であれば、(致命傷を追わないのであれば)相手の勝負手を潰すために、ぶつけていく。
自分のチャンスを生かし、相手のチャンスを潰すのだ。その為の方法は、気をつけていれば、いくつもいくつも転がっている。手牌の、配牌の良し悪しなど、些事だ。
「どんな状況でも楽しみたい」ものだ。


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