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4人で打つこと。 [哲学する麻雀]

麻雀は4人で打つもの。

相手が何を考えているのか?の推察。

相手が何を考えて、どのように牌を組んでくるか?

それを鑑みた上で、自分の手牌を重ねる。

場の状況の把握とは、

点棒状況を踏まえた「相手の思考」をしっかりと把握できていることをいう。

例えば、それが大きな大会などであればなおのことだ。

その大会での相手の順位が、例えば予選通過ぎりぎりのだとすれば

慎重に牌を組むだろうし、

大量得点を獲得していて、予選通過はほぼ確実、というのであれば

多少の振込みは、恐れないだろう。

また、予選通過に程遠い順位の人間であれば、

かなり攻めっ気の強い手組となる可能性が高い。

こういうことを踏まえずに、ただ「自分の手組が高いから、」とか

「勝負できそうだから」とか、そういう単純な理由で牌を組むのであれば

それは、4人で打つ必要のない麻雀だ。

そこには、自分が自分の手牌をどうしたい、こうしたい、という

自分本位な考えしか存在していない。

現在の状況を客観的に読み取ること。

それに合わせて、たくさんの選択肢を持ち、最善手を打つこと。

それが、麻雀の最大の魅力である。

これは、人生と同じだと私は思う。

自分のことしかみえない狭量な価値観では、だめだ。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

数日考えていた。

私は、自分の許せないと考える麻雀について、看過できない。

看過できないけれど、そうすることで、他の人に迷惑をかけていないか?

ということをもう一度考え直さなければならない。

「どんな人間とも大切につきあいなさい。」

この言葉を、いただき感銘を受ける。

例えば私が、身勝手な思いから「粗末に接した人間」が、

めぐり巡って「私の周囲の人間を粗末にする」かも知れないということ。

私が大切にすることがかなわない人間が、

私の大切な人間を粗末に扱う可能性がある、ということ。

例えば、麻雀を大切にしない人間をぞんざいに扱えば、その人は

麻雀を大切にする私の周囲の人間をぞんざいに扱う、といった具合。

「ここまでは許すけれど、この先は許さない」、という考えが、

結局何も許していない、ということと同じように

「ここまでは大切にできるけれど、この先は大切にできない」というのであれば

それは最初から何も大切になどできていないのだ。

必要なのは、もっともっと大きな捉え方だ。

自分の大切なもののために、大切にしたくないものを大切にする。

それは、それほどまでにして、大切なものが大切だ、という解にたどり着けるのではないか?

看過できないものも、粉砕せず攻撃せず、受け入れる力。

圧倒的な拒絶というのは、そういう努力を積み重ねたあとのハナシではないか?と考えるのだ。

一番理想な状態は、「大切にする」とかいう概念が必要ないくらい当たり前に「大切にできている」ということ。

麻雀を大切にしたいからこそ、清濁あわせて全て、大切にしなければならない。

きっと、そういうことなのだと思う。

だから、他人がどうあれ、自分は自分なりに常に精一杯でいるしかない。

他人がシャミセンぶっこいていても、自分はそのことで揺れない。

他人の粗相ごときに、乱されずその一局を真摯に見つめること。

他人に期待して甘えない。

どんなにひどい麻雀を打たれても、それに染まらないこと。

揺るぎない自分の麻雀を、もっともっと大きく成長させていきたい。

つかさ会 8月23日、午前11時から

パラダイスロスト本家↓

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気づきのススメ [哲学する麻雀]

私は、にぶい。

いつも、自分をちゃんと「にぶい」と認識しているから、

ことさら愚鈍な自分に自己嫌悪しなくてすむように気をつけている。

例えば、

「あのひとの麻雀は、いやしいですね。」

などど、他人の麻雀への評価を耳にしたとき、

「果たして自分はしっかりできているだろうか?」

と考えてみる。

これは、なにも麻雀だけのことではない。

常に、アンテナを張って、周囲の状況に自分を重ねて精査する習慣。

これを身につけることが、総じて「気づきの力」を向上させると信じている。

最近、「私は、自分の伝え方がよくない、」と反省をしている。

繰り返し、このブログでこぼしていたかもしれないが、

「私の伝え方が適切ではない」ために、

本人の気づく力を失わさせているのではないか?と。

気づいてもらいたい一心で、余計なことをしてしまっている、ということ。

「気づく人間は、自分で気づく。」

それに反して

「気づかない人間は、本当に何を言っても気づかない。気づいたふりをするだけだ。」

けれど、せっかくめぐり合ったのだから、何か力になれないだろうか?

とおもうことが、結局のところ余計なお世話なのだ。

「なぜ?気づかない?」

といくら気をもんだところで、

「気づく力がない人間」に、「気づけ」、というのは、酷なハナシだ。

気づく力は、意識しないと身につかない。

自分は未来永劫、「気づけない人間」なのだ、ということを真摯に受け止め

自分自身で、「強く改革をしてゆく意識を持つこと」これが、大切だ。

勝手に期待して、信じて残念に思う、なんていう猿芝居は、もう本当にばかばかしい。

だから、「気づいてもらえるはずがない」と私はそう思っていなければならない。

さらに、「気づいていないけれど、気づいたふりをする。」ということ、もよく踏まえて。

そして、私にとっては、信じられないそれらは、もはや私の責任ではない。

同じ言葉で、気づいてくださる人間がいる以上、もうこれ以上どうにもならない。

わたしの言葉が、たとえば2時間くらい考えた結果の精一杯であっても

相手にそれを受け止める力がなければ、それまでだ。

言葉に、力はない。

それを、受け止める人間の意識の問題なのだ。

だから、私は、まず相手の意識を慮る必要があったのだ。

平等に・・・という考えはこの場合やはり適切ではない。

つかさ会では、拙いながらも意見交換をできる人間が増えてきている。

その一方、自分が傷つくことを恐れて、他人に迷惑をかけることを恐れて

言葉を発することができない人間もいる。

後者が、自分の言葉を相手に伝えることにできる環境を作ること。

これが、最後に私のできることであって、

「他人の麻雀にくちだしすること。」が私の仕事ではない。

もう、おせっかいはやめにしよう。

だから、そのひとの麻雀の一打の理由は、私ではなく、そのひと本人に訊ねて欲しい。

できるだけ、失礼がないように訊ねて欲しい。

私は、「きづく力をまだ持たない人間」の心の機微までは、正しく理解できない。

これからは、若い世代の意識を中心に、

みなで意見交換をして、麻雀を深化させていって欲しい。

たとえ現在は気づくことができなくても、

未来、気づけるようになりたい、と望むのであれば、

それは、それで素晴しいことなのだから。

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8月9日、午前11時から

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麻雀は4人で打っている [哲学する麻雀]

 麻雀は自分に有利な打牌を積み重ねるゲームではあるのだけれど

私はそれは、麻雀の持っている性質のひとつでしかない、と考えている。

これは私見だ。

麻雀は、哲学である。

麻雀に、その人の全てが投影される、といっても過言ではない。

わたしは、繰り返して、いつも言葉にしている「麻雀は4人で打っている。」ということ。

すなわち相手の気持ちを考えなさい、ということ。

例えば、フケイサンもおぼつかない人間が同卓していたとして、それでも、

「自分の所作が、他人に迷惑なのではないだろうか?」

と、少しでも考えていらっしゃるのであれば、100点満点だと、私はおもう。

返せば、それを考えない打牌は、私にとって価値がない。

「そんな牌を切ってまで、勝って何の意味があるのか?」

「本当に自分のことしか考えていないなあ。」

と、同卓していて私がそう感じる人は多い。

「ああ、この人は、きっと、ひとりで生きているんだな。」

とまで、思う。

他人を信頼できていない、ことに気づかない。

自分のことしか考えていないことに気づかない。

周囲の気持ちに気づけない。

よい悪いの問題ではない。

「気づけていない。」のだ。

だから、気づけばいい。

基本、他人の麻雀には口出しはしない。

それは、他人の人生に口出しすることと同義だからだ。

ほぼ、嫌なことにしかならない。

誰かを思いやれば、あだになるにことがほとんどだ。

けれど、教えてください、とおっしゃるのであれば話は別だ。

どうせ、何度言ったって伝わらないだろうなあ。

そう思いながらも、何度でも私は言い続ける。

「自分さえよければそれでいいのですか?」と。

もし、社会がそうあったとしても、人間はそういう風にはできていない。

「損得抜きで、何かを大切にできる」人間とはそういう生き物なのだ。

けれど、そういう風に「自分さえよければ」でありながらも、結果が出てしまう。

だから、麻雀は残酷なのだ。

麻雀も人生も同じ。

麻雀だけ、そういう風だ、ということはありえない。

自分さえよければ、の人生が、「それじゃさびしいじゃないか?」

と思うのは、私の哲学なのだから、それに迎合する必要はない。

けれど、それが違う、というのであれば、そう仰って欲しい。

であれば、私はそこをわきまえて接するから。

けれど、あきらめないのであれば、わたしもあきらめない。

麻雀も人生も「そこにおもいやりがなければ」朴念仁には残酷である。

いつも、自戒の念を込めておもう。

牌、対局者を、粗末にしていないだろうか?と。

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8月9日、午前11時から

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麻雀で銀河が救えるはずないでしょ? [哲学する麻雀]

私は、麻雀を打つことがなくても全然平気である。

というか、考える麻雀については、もう自分なりにそこから、

様々なことを学びとらせていただいているので、本当に満足をしている。

強くなりたいわけでもないし、

強い人間と打ちたいわけでもない。

麻雀が強くても、エライわけでもなんでもない。

他人がどんな麻雀を打とうが、私には関係ない。

本人が本人の責任で、楽しめばよい。

けれど、ほんの短い間だけれど、私は、「麻雀が思いやりでできている」

ということを、師匠に教わった。

そして、必死で勉強することの楽しさを教わった。

そして、それは、麻雀だけに限ったことではない、と。

けれど、きっと、こういうことは、余計なお世話なのだ。

勉強をする習慣のない人間もいるだろうし、

勉強するほうがよい、という考えは私の私見だし、

そういうことより、本人が楽しむことのほうが価値があると思うし。

結局のところ、私の価値観を押し付けているに過ぎない。

「あなたは、あなたの好きな麻雀しか大事にできないじゃろな。」

とは、師匠の言葉。

きっと、それは、現在も変わらない。

ふと、思うのだ。

麻雀を共有しようとすること、そのことが、間違いではないか?と。

私が、余計なことをしなければ、みな、自分の力で、自分の麻雀に辿り着けたのではないか?と。

私とひろりん師匠のケースや、私とF森くんのケースは、超レアケースで、

それを当たり前だと思うことが、そもそも間違いではないだろうか?と。

麻雀に使う時間、特に対局には、ものすごい時間を使う。

毎週、16時間として、月64時間。年間768時間。

これらの時間を費やして悦に入り、余計なことをしているのではないだろうか?ということ。

軽く死にたくなる、まである。

どんなに、言葉を紡いで相手に伝えようとしても、

その人が、「自分で気づくこと」には、敵わない。

私が、安易に答えを用意してしまうことで、その人は自分で考えることをやめる。

麻雀の考え方だけを伝えさせていただいているだけだから、

 そう思っていたけれど、

実のところ、この「麻雀の考え方」に「自分で気づく」ことに価値があるわけで

「こう考えたほうがいいよ」

などと、よくよく考えてみれば、チョー余計なお世話である。

実は、このことはいつもいつも、考えていて、

それでも、どうしようもなく乗りかかった船で、航路の変更が効かない。

麻雀を打っていれば、昨日も今日も、明日も、同じステージであってもしあわせだ、

という人もいる。

それは、その人の価値観だ。

私は、同じところに、いる。と考えただけで、寒気する。

変わり続けたいし、成長をしたい。

挑戦して失敗して、それらを糧に、まだ見ぬ光景に届きたい。

変わらないことに価値があるとするならば、

変わろうとして、やはり変わらなくてもよい、と思えた場合のみである。

実は、私が思うほど、麻雀は、みなの共通項とはなり得ないのかも知れない。

私の麻雀との関係と、他の人の麻雀との関係が、同じものとは思えないし、

同じものである必要はないし、似通ったものになるとも、思えないし

似る必要もない。

ただ、私が確信していることは、

全ての邂逅を慈しめば、心豊かな人生となる。

ということ。

牌との出会い、対局者との出会い。

それらを、あるがままの心で慈しむことができたのであれば、

必ず新しい気づきが生まれるはずだ。

多分、それだけは、間違っていない、と思う。

麻雀を楽しんで欲しい。

心の扉を開けて、妬み、自己顕示欲、そんなもの一切かっさい捨て去って。

牌と人の織り成す珠玉の奇跡の物語に感動をしてほしい。

人生は、慈しむ心を持つことで、希望に満ち溢れる。

麻雀と人生はきっと等記号で結ばれる。

最後になるけれど、当ブログでの見解は、全て私のひとりよがりの私見だ。

勝手に、勝手なことを綴ってきただけである。

どうか、私の私見が、みなさんの「自信の気づき」を邪魔していないことを祈る。

ちょっと、やりすぎちゃった感がハンパない。

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7月19日、午前11時から

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魔法少女と銀河鉄道の夜 [哲学する麻雀]

ぼんぼんで、チョー過保護だった私には、小学校1年の時分から、家庭教師がついていた。 

そのことは、別にイヤではなかった。 

勉強が好きとか、嫌いとか、そういうこと以前の問題。

母親が喜ぶから。それだけで、本当に十分な理由となる。

そろばんに、水泳、くもんに、剣道に野球そして塾。

習い事のない日には、家庭教師のお姉さんがいらっしゃる。

母親は、「ひとりで生きてゆけるだけの力」を私に 授けたかったのだろう。

だが、皮肉にも、私が自分の足で歩けるようになったのは、母親と永訣の時を迎えた後のことだった。 

ハナシを戻そう。

小学校3年の頃、私に勉強を教えてくれていたYお姉さんが、誕生日にプレゼントをくれた。

「よしきた!食べ物だ!」とまず思った私は、そのずっしりとした重さに少しがっかりしたのだけれど、

「ゆうさん、これだけは、大人になる前に読んでね。」

と言う言葉を添えられた本が、「銀河鉄道の夜」だった。

私が、絵空事のハナシにロマンを感じてしまう理由は、全てこの「銀河鉄道の夜」から始まった。

「天体観測」は今でもよく聴くし、FF7の給水塔のシーンは大好きだし、

大分の「梅安の里」にはよく出かけていたし、汝の希望はいつも星に繋げる心意気でもある。 

今でもふと、この人生は、誰かと一緒に見ている夢ではないだろうか?とまで思うことがある。 

誰かの為に、この身を焼かれてもよい。

友人を助けて、命を落とすカンパネルラ。

純粋無垢な見返りを求めない自己犠牲。

これを求めて止まない私は、いつも、今でも、「銀河鉄道の夜」を読み、自己嫌悪に陥る。

いつかそんな大人になれるのだろうか?

と思いを馳せた少年の日々は追憶の彼方。 

他人の為に、自分より誰かを、なんてこと生き物としてありうるのだろうか?

まず、自己保身が先ではないのだろうか?

けれど、自分が、いよいよもうだめだ、と思った時に、

やはり この命を投じてでも誰かを助けたい、と願うのだろうか?

某有名魔法少女作品は、作画が蒼樹うめで、イヌカレーで、まあアレな感じなもので、

偏見をもたれがちだけれど、オハナシは素晴らしいと思っている。 あのアレなお話は、

その少女のたった一つの願いごとが「自分を犠牲にしてみなを救うこと」だった。

という、なんとも「銀河鉄道の夜」なストーリー。

はじめて観たときに、「銀河鉄道の夜」のオマージュかと思ったくらいだ。 

そして、その新編は、「どんな絶望も呪いよりも深い愛で、上書きしちゃうよ。ふっふっふ」 

というとんでもないものだった。

私は、「我が身を捧げて誰かのために」なんて、できない。

他人への思いやりでさえも、全て自分の安全を確保したうえで、電卓を弾いて行う卑しい人間である。 

麻雀において、少しでも潔白になりたい、と望むし、それを体現したいと思うけれど、無理だ。

牌と対局者を大切に。麻雀は4人で打っている。

それを、口にして唱え続ける理由は、やはり自分が全く「そのことができていないから」に他ならない。

勝ち負けや成績に意味がない、と唱え続ける理由もやはり「自分にそうではないところがある」からに他ならない。 

相手を踏みにじり、蹂躙して、「おれさまツエー」を良しとする自分と、それを恥じる自分。 

二律背反する2つの存在が自分の中で、鬩ぎあっている。

誰かの麻雀を咎めるときに、いつも、自己欺瞞を押し殺している。

内心、私にそんなことをいう資格などない、と。

ひたすら迷子である。

何が正しいのか、どこからが思い上がりで、どこまでが思いやりなのか?

考えを重ねた回数だけ、またわからなくなる。

ひろりん師匠は、狭義では一打の理由、広義では麻雀そのものについて

「答えは私の心に中にある」とおっしゃったけれど、それは違うと思う。 

きっと、答えはどこにもないのだ。

これが答えだ、と思えた地点で、それはきっと答えではないのだ、と、思う。

だから、わからないこと、迷うこと、不安であること、これらをそのまま全て楽しんでみよう、と思う。

その結果、愚にもつかない独りよがりの自分の営みが、もし誰かの役に立っていたとするならば、

それをいつか、静かに誇ればよい、とも、思うのだ。  

 きっと、まだ、終わることのない長い旅の途中なのだから。

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7月12日、午前11時から

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牌を組むこと。 [哲学する麻雀]

これは、私の麻雀観である。

なので、賛同を得たいとか、そういうことはこれっぽっちも考えてはいない。

ただ、たった一人であっても構わないから、伝わらないものかしら?

と思いただ綴っているだけである。

麻雀は、数と確率のゲームである。

そのことは、重々理解できているつもりだ。

わたしにとって、麻雀はやはり哲学なのだ。

幾星霜、何億分の一の偶然の確率で出会う対局者と牌。

この偶然と呼ぶことをもためらわれる確率での邂逅。

これを、意思の力で「意味」を持たせて、必然へと昇華する。

麻雀とは、人生そのものなのだ。

その状況を鳥瞰、俯瞰、できる大きな懐を持つことで、本質に近づく。

開闢。

それぞれの席へ振り分けられる。

その偶然の席割りをそれぞれの経験で、より意味の深いものへ変えてゆく。

そして、だれもが檜舞台にあがることのできるチャンスも用意されている。

ドラ牌。

偶然与えれる絶対的な価値。

配牌。

偶然配られた割り振られた13枚。

配牌のよい人間。

生まれながらに、たくさんのものを持っている人間。

配牌の悪い人間。

何も持たずに生まれた人間。

けれど、価値は与えらえたものなんかじゃ決まらない。

何も持っていなかったものが、何も持っていなかったが故に

素晴らしい人生を送ることだってある。

天から偶然もらい受けたものを精一杯形にする。

そのことよりも、愛おしいことなど存在しない。

楽なものには価値なんてないんだ。

他家からの攻勢。

不運。

何度も何度も、理不尽なものに阻まれながら全うする。

偶然を必然にする為に。

自分が心から納得するために精一杯を紡ぐ。

その為には、目の前にある形を壊すことだってあるかも知れない。

壊すことで、よりよいものを築くために。

そして、無我夢中に打牌に魂を注ぎ込みながら、終焉を迎える。

そうありたい。

私は、ああ、この世に生まれてきてよかった。と思える終焉を迎えたい。

私はいつも、こんなふうに考えながら本当に麻雀を打っている。

常に麻雀を人生として捉えている。

重いだろうか?

重くて結構。

当然だ。麻雀が軽いわけはあるまい。

麻雀が重いのは当然だ。

そして麻雀に思いやりや責任が必須なのは、当然だ。

当たり前のことなのだ。人生なのだから。

極言するならば、麻雀はその人そのものなのだ。

トップ以外にも、価値がある。

などと、私が口にする最大の理由は、ここに起因する。

本人が心から満足できている打牌の積み重ねであれば、

オーラス着順に変わらない1000点で和了したって構わないのだ。

その1000点が魂の1000点なら、だれも文句は言わないはずなのだ。

ある程度、麻雀が打てるようになり、目先の結果がよくなると、

「麻雀の捉え方」が小さくなる。

そういう人間を何100人と見てきた。

ほとんどに人間がそうだ。

ある程度勝てて、それで悦に入り偽りのゴールを頂点だと勘違いする。

勝てるから、それが正しいと勘違いをする。

それが、麻雀のもっとも残酷な部分だ。

もっと、もっと大きく捉えることができたならば、

麻雀も人生ももっともっと素晴らしいものになるのに・・、

目先の損得麻雀。そういう麻雀は、もう全く心に響かない。

相手から、どう見えているか?を考えることで、

「自分をよく見せたい」

と思うのではなく

「まだまだ、自分の想いはこんなものではない」

「対局者の打牌に恥じぬよう、まだまだ打牌を精査させてもらいたい」

という、そういう意識に辿り着けるか、どうか?だ。

それこそが、なにものにも代えがたい矜持だと私は思う。

けれど、こういうことは、そもそも伝えることすらかなわない観念の世界だ。

形而上のものを、形而下の言葉で伝えることは難しい。

だって、私が勝手に頭の中で考えている想念に過ぎないのだから。

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ひとりでは、なにもできないでしょ? [哲学する麻雀]

昔、行きつけのビリヤード店にいつもひとりで突いているおっさんがいた。

みな、彼に近づかない。誰も、彼と突こうとしない。

いつも、ひとりで、キューを抱えて、ひとりで玉を突いて帰る。

その姿を数回見送ったある日、

イケメンの青年Hが、そのおっさんに

「セットマッチをしませんか?」

と、話しかけた。

もちろんおっさんは、チョーへたっぴいだったけれど、

その「懸命さ」と「嬉しくて仕方ない様子」が、とても温かかった。

このおっさんも、ビリヤードが大好きで、相突きがしたくて仕方がなかったのだ。

そのことが、きっかけで、そのおっさんは、みなと玉を突けるようになった。

そんなことがあってしばらくして、

 「なんで、あの時、あのおっさんに、声をかけたの?」

と、私はその青年に訊ねた。

A級の青年は、(A級というのは、とてもビリヤードが上手な人のことを指します)

「この店に来る道中、あのおっさん、何を考えているのかなあ?って、考えた。

きっと、楽しい時間を過ごしたくて、わくわくしていたと思う。

今日は、もしかしたら、人と突けるかも知れない、って。

ビリヤードは、人と突かないと楽しくないもんね?

それに、あんなに一生懸命なんだもの、むしろ、俺のほうが

一緒に突いて欲しいくらいだよ。

おれも負けないくらい最高の玉を魅せてやるぜ!という気持ちになる。」

ビリヤードも麻雀も、自分より上手な人間と戦わなければ、強くはならない。

けれど、この青年のように、ビリヤードを愛していて、

ビリヤードにひたむきな人間を愛する、そういう人間はその限りではない。

私は、この青年Hを尊敬している。

そして、自分も麻雀に対しては、基本そのスタンスだ。

その人が、ここで、麻雀を打つことを、どれだけ楽しみにしているのか?

を考える。

その人が、拙いながらも、どれほどの想いをもっているか?

を考える。

勝つとか、負けるとか、損とか得とか、そんな些末なことはどうでもいい。

麻雀が好きで、一緒に麻雀を打つ人間がいることに感謝して、

精一杯臨んでいれば、それ以上何が必要なのか?

同卓者の気持ちを考えよう。

相手が、どんな気持ちで、その対局に臨んでいるのか?

考えてみよう。

前の日、わくわくして眠れないほど、楽しみにしているかもしれない。

例えば、電車で2時間かけて、来てくれる。

このことが、どれほど大変なことか、考えてみよう。

そういうことを考えたうえで、粛々と牌を握ろう。

私は、よく迷走するけれど、

やはり、「同卓者に気づいてもらえなくても」

全身全霊をかけて一打を刻みたい。

あの青年のように、

「最高の麻雀を魅せてやるぜ!」

という気概である。

そういう気概を持って対局に挑めない時には、

自分の不甲斐なさに消えてしまいたくなる。

私は、私が今よりも全然拙くて、おはなしにならないくらい「ひよこちゃん」だった頃、

それでも、時間とお金を割いて、私に様々なことを教えてくれた恩師たちがいる。

だから、その時受けたご恩を形をかえて、返したいと思っている。

私にとって、現地点で、人生で一番価値があるものは、人との出会い、邂逅だ。

幾星霜、本当に天文学的な偶然の結果の邂逅。

その偶然が必然にかわってゆく奇跡の軌跡。

人は人と出会い、本当にたくさんのことに、気づく。

いや、気づかせていただく。

お金?お金ももちろん大好きですよ!チョー好きです。

お金あれば、ココイチ食べ放題だし!

けれど、それでもね、お金は人間を越えることはできない、と思う。

超えて欲しくない、と思う。

人の生み出したもの(お金)が、人を超えるはずはない。

人生の目的は、人として何を為すか?だと思うし

お金はその為の手段のひとつにすぎない、とやはり今でも思う。

甘いのかな?

けれど、ひとりでは、何もできないんだよ?

麻雀だって4人いなきゃできなんだから。

ほら、そこだけ考えてみても、人間のほうが大切じゃないですか?

不穏当な例だけど、

ロープレで、ラスボス倒した後に、無駄に残るゴールド。

あれを見るたびに、ああ、カネよりも目的だなー、といつも思っていた。

ひとりじゃなにもできないし、つまんない。

人間はそういう風にできている。

人を大事にして生きていれば、生きていても

ものすごくたくさんの裏切りを受けることになるだろうけれど、

それでも、それにかわるくらいの「あたたかさ」も用意されている。

人生は、うまく帳尻があうようにできている。

少なくとも、ここまでの、私の人生では、そう断言できる。

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つかさ会は、6月14日、午前11時から

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1000,2000の罠 [哲学する麻雀]

チャンタとか好きじゃないですう!

との意見を食らい続ける日々。ちょっと、休憩で違う記事を差し込んでみます。

::::::::::::::::::::::::::::: 

私が、思いやりのある麻雀を打ちたいですう!

と口にする理由は至ってシンプル。

「そうしたいから」だ。

自分はそのステージに辿り着けてはいないけれど、私の過去の邂逅の中には、

その一期一会を神様に感謝するほど、 

「相手のことを当たり前に考える」人達が いた。

「相手の気持ちを自然に考える」って、かっこいいなあ。と私はいつも思っていて

さらに、「いつかそういう人になりたい、」と、やはり憧れるのだ。

何か、答えを導きだす際に、

「相手の気持ち」を考えているかどうか?

これが、何よりも大切だと、私は思う。

「相手の気持ち」を考えて、それでも!という決断であれば、それは雄々しいし、

「相手の気持ち」を考えているうちに、他の選択肢が、頭に想起されることだってある。

麻雀と同じで、同じ解を導き出すにしても、その思考の積み重ねの過程に

「相手の思考を推察すること」が介在しているか、どうか?このことが、大切なのだ。 

ただ、それだけのことなのだが、それだけのことで、人生は温かくなる。

「捨てたものじゃあない。」と。

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発、ドラドラ。2000点。

「はつ、どらどらにせんてん」

と聞こえた。

ああ、でも、これは、

発ドラドラ。2000.1000.

「はつどらどらにせんせん」

といっているのかな?とも思った。

この和了者は、いつも、1000、2000を、2000,1000と申告する。

2000、4000も、4000、2000と申告する。

だから、今回も、そうなのかな、と思ったのだ。

解りにくい点棒申告に辟易としたけれど、指摘はしなかった。

同卓者も困惑していたけれど。 

点棒申告もろくに必要と考えていなくて、「見ればわかるだろうが! 」

などと口にする人間と、交わす言葉など私は持たないからだ。

良い悪いの問題ではなく、私とは「共有できるもの」が何一つない、という、それだけのことだ。 

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麻雀の点棒申告も、思いやりでできている。

1000、2000.2000,4000。3000.6000.

必ず、子供の点数を先に申告する。

これは、麻雀の基本中の基本だ。 

その理由について、今回のような「申告が聞き取れない」というトラブルも起きないようにすること。

そして、子供のほうが、親より数が多いから、だ、と私は習った。 

いずれにしても、他の人の申告を見ていれば、簡単に気づくことだろうに、と思う。

けれど、気づかない人間は、一億年生きていても気づかない。

私は、このことをとても残酷に、残念に思うのだ。

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オワコンの日々 [哲学する麻雀]

 まじオワコンだ。

麻雀がおかしくなってしまって修正が効かない。

止めなければいけない牌を切ってしまう。

手順エラーは星の数。

スランプとかじゃない。

完全に自分の心のせいだ。

自分の麻雀を客観的にみて、「オハナシにならない」と思う。

正しい手順を踏むことができていないこと。

しっかりと推察できていないこと。

このことは、他の何かのせいになどできるはずはない。

これが戦場なら、命がいくつあっても足りない。

ザオリクを覚えた賢者必須である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ドラ南。親12巡目

八ワンを引いて以下の形。

一三七八九②③⑦⑧⑨789南

南ちゃんは、ドラで初牌だけれど、

この形になれば、

ドラは不要。ドラがなくても充分な形が入っている。

なので、南を切って問題ないのだけれど、河には③が並んでいた。

チャンタである必要など全くないのに、何を考えているのかしら?

①②③一二三引きテンパイ食い仕掛けもオケイだよー!

を、二②南テンパイにする意味がわからない。

バカなの?死ぬの?

迷走は続く。

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ソクラテスのように [哲学する麻雀]

この局面で、この③⑥は打ち出されることはない。

流局だな、と内心思っていたら、トイメンの青年から⑥がでた。

私は、彼につかさ会で麻雀を教えさせていただいている、という背景があったので

不躾だとはおもったのだけれど、

「どうして、おりていた様子なのに、⑥を切ったの?」

と訊ねてみた。

全体の河を見て大丈夫だと判断した、わたしの手出しは見ていなかった、

との返事。

唖然とする私に、Y氏が手を開きながら、口を開く。

「いや、このピンズは止むを得ないですよ。

私は、止めたけれど、このピンズを止めることは、無理でしょう。

彼を責めてはいけない。かわいそうだ。」

重ねて、せんぱいも、手のうちの③を2枚、⑥を一枚見せて

「いや、わたしも止めているけれど、これは、打ってしまうよ。」

との言葉。

「けれど、手出しの④⑤ですよ?この局面は、③⑥を掴めば受けて、流局でしょう?

この⑥は、河に切られるにたる理由がない。」

と、返すと、

もうそれ以上口を開いてはいけないよ、そんな教会のような空気になっていた。

Y氏もせんぱいも、当たり前のように止まる牌を、青年は切る。

それは、精一杯の結果なのだから、責めることはない。

けれど、これが戦場であれば、この青年はこの⑥で即死である。

私は、それくらいの気持ちで打っている。

こういう⑥をとめることができなければ死ぬ、というくらいの気持ち。

それが、真剣勝負だ、と思うのだ。

この青年に、この一打を深く重く受け止め身に刻んで欲しい、と願うのだ。

そうすれば、この放銃にも意味が生まれる。

Y氏もせんぱいも、「青年にはまだ無理だ」という。

「それすら、まだ無理だ」とおっしゃっているのだ、と私は理解した。

その言葉には、きっと、長い目で見てあげなさい、という思いが込められている。

2週間近く、考えたけれど、やはり、どうしてもお二方のような境地にはたどり着けない。

自分が、そのように育てられていないからだ。

放銃して、惨めで、申し訳なくて、消えてしまいたいような想い。

それでも、自分を見捨てないひろりん師匠に応えたい、という想い。

自分だけが、必死で、自分だけが一生懸命だ、とはおもわないけれど、

温度差を感じずにはいられない。

私が、本気ですべてを伝えようとすると、ほとんどの人間が、壊れる。

「本気でないものには、価値がない、」と思う私に、

他人に何かを上手に伝える力はない。

上手に伝えようとしたところで、それは、なんだかしっくりこないものとなる。

きっと、物事を教える人間はもっと、クールで広い視野を持てなければならない、のだと思う。

例えば、ソクラテスだったら、ひたすら青年の言い分を聞くだろう。

そして、いくつか矛盾点を指摘して、あとは、青年の責任、とする、と思う。

青年に考えるヒントを与えること、それ以上は踏み込まないだろう、と。

多分、それで、よいのだ。

結局、私とひろりん師匠だけが、異常に熱かった、ということなのだ、という解に辿り着く。

私は、ひろりん師匠が私にしてくれたように、

「麻雀を教えて欲しい」といってくる若者には、全力で全てをぶつけてきた。

その結果、このありさまであり、なおかつ、私の選択は間違っている。

私は、私くらいの温度で、「麻雀を教えて欲しい」といってくれる人間だけに

全力をぶつければよかったのだ。

それ以外は、ソクラテスでよいのだ。

訊ねることに答えていれば、いずれも、みな自ら解に辿り着く。

それは、無責任なことではない。

そういう個々の「考える力を信頼した」責任の果たし方なのだ、と思う。

灼熱の温度で、むりやり時計の針を進める必要はない。のだ。

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