ソクラテスのように [哲学する麻雀]
この局面で、この③⑥は打ち出されることはない。
流局だな、と内心思っていたら、トイメンの青年から⑥がでた。
私は、彼につかさ会で麻雀を教えさせていただいている、という背景があったので
不躾だとはおもったのだけれど、
「どうして、おりていた様子なのに、⑥を切ったの?」
と訊ねてみた。
全体の河を見て大丈夫だと判断した、わたしの手出しは見ていなかった、
との返事。
唖然とする私に、Y氏が手を開きながら、口を開く。
「いや、このピンズは止むを得ないですよ。
私は、止めたけれど、このピンズを止めることは、無理でしょう。
彼を責めてはいけない。かわいそうだ。」
重ねて、せんぱいも、手のうちの③を2枚、⑥を一枚見せて
「いや、わたしも止めているけれど、これは、打ってしまうよ。」
との言葉。
「けれど、手出しの④⑤ですよ?この局面は、③⑥を掴めば受けて、流局でしょう?
この⑥は、河に切られるにたる理由がない。」
と、返すと、
もうそれ以上口を開いてはいけないよ、そんな教会のような空気になっていた。
Y氏もせんぱいも、当たり前のように止まる牌を、青年は切る。
それは、精一杯の結果なのだから、責めることはない。
けれど、これが戦場であれば、この青年はこの⑥で即死である。
私は、それくらいの気持ちで打っている。
こういう⑥をとめることができなければ死ぬ、というくらいの気持ち。
それが、真剣勝負だ、と思うのだ。
この青年に、この一打を深く重く受け止め身に刻んで欲しい、と願うのだ。
そうすれば、この放銃にも意味が生まれる。
Y氏もせんぱいも、「青年にはまだ無理だ」という。
「それすら、まだ無理だ」とおっしゃっているのだ、と私は理解した。
その言葉には、きっと、長い目で見てあげなさい、という思いが込められている。
2週間近く、考えたけれど、やはり、どうしてもお二方のような境地にはたどり着けない。
自分が、そのように育てられていないからだ。
放銃して、惨めで、申し訳なくて、消えてしまいたいような想い。
それでも、自分を見捨てないひろりん師匠に応えたい、という想い。
自分だけが、必死で、自分だけが一生懸命だ、とはおもわないけれど、
温度差を感じずにはいられない。
私が、本気ですべてを伝えようとすると、ほとんどの人間が、壊れる。
「本気でないものには、価値がない、」と思う私に、
他人に何かを上手に伝える力はない。
上手に伝えようとしたところで、それは、なんだかしっくりこないものとなる。
きっと、物事を教える人間はもっと、クールで広い視野を持てなければならない、のだと思う。
例えば、ソクラテスだったら、ひたすら青年の言い分を聞くだろう。
そして、いくつか矛盾点を指摘して、あとは、青年の責任、とする、と思う。
青年に考えるヒントを与えること、それ以上は踏み込まないだろう、と。
多分、それで、よいのだ。
結局、私とひろりん師匠だけが、異常に熱かった、ということなのだ、という解に辿り着く。
私は、ひろりん師匠が私にしてくれたように、
「麻雀を教えて欲しい」といってくる若者には、全力で全てをぶつけてきた。
その結果、このありさまであり、なおかつ、私の選択は間違っている。
私は、私くらいの温度で、「麻雀を教えて欲しい」といってくれる人間だけに
全力をぶつければよかったのだ。
それ以外は、ソクラテスでよいのだ。
訊ねることに答えていれば、いずれも、みな自ら解に辿り着く。
それは、無責任なことではない。
そういう個々の「考える力を信頼した」責任の果たし方なのだ、と思う。
灼熱の温度で、むりやり時計の針を進める必要はない。のだ。
つかさ会は、5月24日、午前11時から
パラダイスロスト本家↓
http://wing6877.blog.so-net.ne.jp/
つかさ会。会場などの情報は、こちらをクリックしてください。↓
http://www.mj-king.net/janso/search/detail_9282.html
ランキングに参加。クリック!クリック!
<→
麻雀 ブログランキングへ
みくのん先生↓「放課後ストライド」↓
http://www.nicovideo.jp/watch/sm19480453
コメント 0