卓上は戦場。 [哲学する麻雀]
自分が思うほど、相手は考えてはいないし、
相手が思うほど、自分も考えていない。
そして、自分も自分のことなど、自分が考えるほどに、考えてはいない。
考えるということは、形而上の成り立ち。
だからどこまでも、どこまでも、誤解を招く。
そういうものがないまぜになって、様々な醜悪な感情へと転化する。
けれど、人は一人では、存在できないから、必死で他人の存在を認識しようとする。
(他人という存在が定義できて、はじめて自分が定義できる。)
だからこそ、人は相手のことを自分なりに、考えようとする。
それが、思いやり、の正体ではないか、と私は考えている。
相手のこと(相手の力量)をしっかり受けとめることが、その人の人間の厚みだ。
私には、その力が足りない。
心のどこかで、他人も自分と違わないゆるぎないものだと、幼児のように信じている。
いつもいつも、勝手に思い込んで理想を重ねて、勝手に失望する。
そして、そういう自分に限りなく嫌気がさす。
他人を肯定するために吐いた言葉のほとんどが、仇になる。
他人を否定するために吐いた言葉は、咎として自分に突き刺さる。
そうして私はどんどん「麻雀を打っている自分」のことを容認できなくなる。
私に麻雀を教えてくれ、と言わなければ、きっと、傷つかなくて済むし、
私も傷つけずにすむのに。
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割と絶命状態の南2局の親。
七八九④④⑤⑤1156789
のメンツオーバー
8巡目。
ソーズは高くピンズは安い。
③が1枚
④が自分の手の内も合わせて3枚
⑤は自分の手の内を合わせて4枚
⑥は場に2枚。
このペン③が重複したような④④⑤⑤の部分を、
④⑤と④⑤の両面ターツ2つに構えるのは、ムリすぎると考えた。
この③⑥は取れて1枚だろう。
④④⑤⑤のシャボも枚数が少なすぎる。
直前に切られ上家の手出しの④は、③の重なりをも思わせる。
また、ソーズの部分は厚く構えておきたいから。
ただ、続けて、④⑤を手出しで払うと、ダブルターツ落としが簡単に見抜かれてしまう。
同卓していたのは、Y氏とせんぱいと青年の3人。
少なくとも、こういう状況下でぬるい牌を打ち出すメンツではないはずだ。
④⑤のターツを1つ払うのだが、この局面であれば、
続けて切り出さざるを得ない。
そして、7ソウが埋まり、結果として④⑤手出しのリーチ。
④⑤は場にそれぞれ3枚づつ飛んでいる。
ダブルワンチャンス。
和了マストの親の私の手出し④⑤のリーチ。
ということは、④⑤より価値のある優秀なターツが、手の内に組まれているということだ。
私の捨て牌から、イッツーや三色は読み取れない。
であれば、④⑤より優秀なターツすなわち、④⑤ということになる。
この局面で、この③⑥は打ち出されることはない。
ちなみに、私は、卓上は戦場だ、と思っている。
戦場なのに、コーヒーが出てきたり、
おしぼりを拝借したり、なんだか、ちょっとそぐわない感もあるけれど、
それくらいの気持ちで対局には臨むように、教えらえている。
私は、この局は流局、さあ、次局は、どう組もうか?などど勘案していた。
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