4人で打つこと。 [哲学する麻雀]
麻雀は4人で打つもの。
相手が何を考えているのか?の推察。
相手が何を考えて、どのように牌を組んでくるか?
それを鑑みた上で、自分の手牌を重ねる。
場の状況の把握とは、
点棒状況を踏まえた「相手の思考」をしっかりと把握できていることをいう。
例えば、それが大きな大会などであればなおのことだ。
その大会での相手の順位が、例えば予選通過ぎりぎりのだとすれば
慎重に牌を組むだろうし、
大量得点を獲得していて、予選通過はほぼ確実、というのであれば
多少の振込みは、恐れないだろう。
また、予選通過に程遠い順位の人間であれば、
かなり攻めっ気の強い手組となる可能性が高い。
こういうことを踏まえずに、ただ「自分の手組が高いから、」とか
「勝負できそうだから」とか、そういう単純な理由で牌を組むのであれば
それは、4人で打つ必要のない麻雀だ。
そこには、自分が自分の手牌をどうしたい、こうしたい、という
自分本位な考えしか存在していない。
現在の状況を客観的に読み取ること。
それに合わせて、たくさんの選択肢を持ち、最善手を打つこと。
それが、麻雀の最大の魅力である。
これは、人生と同じだと私は思う。
自分のことしかみえない狭量な価値観では、だめだ。
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数日考えていた。
私は、自分の許せないと考える麻雀について、看過できない。
看過できないけれど、そうすることで、他の人に迷惑をかけていないか?
ということをもう一度考え直さなければならない。
「どんな人間とも大切につきあいなさい。」
この言葉を、いただき感銘を受ける。
例えば私が、身勝手な思いから「粗末に接した人間」が、
めぐり巡って「私の周囲の人間を粗末にする」かも知れないということ。
私が大切にすることがかなわない人間が、
私の大切な人間を粗末に扱う可能性がある、ということ。
例えば、麻雀を大切にしない人間をぞんざいに扱えば、その人は
麻雀を大切にする私の周囲の人間をぞんざいに扱う、といった具合。
「ここまでは許すけれど、この先は許さない」、という考えが、
結局何も許していない、ということと同じように
「ここまでは大切にできるけれど、この先は大切にできない」というのであれば
それは最初から何も大切になどできていないのだ。
必要なのは、もっともっと大きな捉え方だ。
自分の大切なもののために、大切にしたくないものを大切にする。
それは、それほどまでにして、大切なものが大切だ、という解にたどり着けるのではないか?
看過できないものも、粉砕せず攻撃せず、受け入れる力。
圧倒的な拒絶というのは、そういう努力を積み重ねたあとのハナシではないか?と考えるのだ。
一番理想な状態は、「大切にする」とかいう概念が必要ないくらい当たり前に「大切にできている」ということ。
麻雀を大切にしたいからこそ、清濁あわせて全て、大切にしなければならない。
きっと、そういうことなのだと思う。
だから、他人がどうあれ、自分は自分なりに常に精一杯でいるしかない。
他人がシャミセンぶっこいていても、自分はそのことで揺れない。
他人の粗相ごときに、乱されずその一局を真摯に見つめること。
他人に期待して甘えない。
どんなにひどい麻雀を打たれても、それに染まらないこと。
揺るぎない自分の麻雀を、もっともっと大きく成長させていきたい。
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