賭け麻雀とじゃんけん勝負 [哲学する麻雀]

「じゃんけん勝負しようぜ!」


「いいぜ!何を賭ける?」


こんな感じで、ジュースくらいなら賭けたりするかもしれない。


けれども、


このじゃんけん勝負に賭かっているものが、


例えば、10,000円とかかかっていたならどうだろうか?


これは、痺れる。


じゃんけんなんてものに10,000円も賭けるなんて、どうかしている。


例えばグーを出しただけで、もう10,000円失うなんで・・・


と、悩みが生まれる。


グーを出すか、チョキを出すか、パーとかも出しちゃうかも・・。


なんて考え出すと、もう泥沼だ。


ここが、大きな誤りの入口だ、と私は思うのだ。


じゃんけん、というもののゲーム性と、


お金が賭かっている、ということは全く別の問題。


お金が賭かっていようが、賭かっていなかろうが、


じゃんけんの結果はそのこととは、完全に独立して存在している、ということ。


ただ人間が、その人間の都合で「お金が賭かっている」というとと


じゃんけんを繋げて考えてしまっているだけなのだ。


賭け麻雀もそうだ。


麻雀というゲーム性はどこまでも、純粋に確率という神の領域。


お金を賭けようが、賭けまいが、変わるはずがない。


ただ金を賭けている人間が、その自分の価値判断を元に


「お金を賭けていること」を理由にしているだけなのだ。


お金を賭けると、試される。


その心の強さを。


お金を理由に、麻雀を曲げることなく


貫けるか、どうか、を。


麻雀は、お金を賭ける必要はない。


けれど、何かを賭けることによって、


「より、自分の本質に近づくこと」が可能となる、


ということは、否定できない。


「この受験に賭けています。」


「この仕事に賭けています。」


「命を賭けています。」


痛みのある所に生まれる意味もある。


麻雀は、(その必要性は別として)


賭けると、心の強さが見える。


自分は、本当のところ、「想い」しか麻雀に乗せてはいない。


使用しているのは、時間とゲーム代だけだ。


そういう自分の麻雀と、賭けることは、これまた独立した事象だけれど、


賭け麻雀も、本当のところ、私の愛する麻雀の側面なのだ。。


きっと自分は、賭けても賭けなくても、同じ打牌なんてできない。


そういう自分の麻雀と、賭けることは、これまた独立した事象だけれど、


「ノーレート麻雀サークル」という賭ける必要のない環境を、


運よく、もっていることから


賭け麻雀を「それは麻雀ではない」ということは、


やはりとても思い上がっている気がするのだ。


麻雀、賭ける必要はない。


だけど、賭けるとか賭けないとか、そういうことと関係なく


麻雀は存在しているわけだから、


賭け麻雀うんぬんと考えることもおかしい、と思ってしまうのだ。


沙霧.jpg


 



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