本当の気持ちは大事だよ [哲学する麻雀]
どんなことでも。
やる気がない、もしくは、やる気がどうしてもでない、
そういう時には、何もしないほうがいいんじゃないか?と。
やる気がないまま対局に挑む、
それは、いろいろ失礼ではないか? と。
麻雀にも対局者に対しても失礼だと。
やる気があれば、どんな些細なことでも教材になるし
多少の不都合も麻雀の魅力になる。
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やる気がないなら、やる気をだせばいい。
対局の前にほんの少し、深呼吸をする。
頭の中で、
「自分にとって、最高の麻雀にする」
と、何度も念じる。
「悔いのない内容」にする。
と、何度も念じる。
麻雀をこれまで打ってきて、
一番苦しかったこと、思い出す。
一番楽しかったこと、思い出す。
一番尊敬する打ち手を思い出す。
懐かしい仲間を思い出す。
そして、これからの対局を思う。
無様な打牌は許されない。
楽しい麻雀も悪くない。
それは、よく解っている。
真剣に向き合うことが、偉い訳ではない。
だけど、私は、麻雀に対して「テキト~」に接することができない。
楽しい麻雀の中でも、心の底では真摯でいたい。
私は、麻雀に対してそういう「愚直な姿勢」しか持てないのだ。
勉強会だから、つかさ会だから、教材となる牌を切る。
楽しい麻雀だから、多少は夢を追う。
そういう自分にとっては、甘えた麻雀が、
どんどん自分を惨めにしてゆく。
どんなときも、死力を尽くせ。
自分の信じるところは、そこしかないのだから。
そう考えると少し吹っ切れた。
坂口安吾の言葉を思い出す。
ただわれわれは、めいめいがめいめいの人生を
精一杯に生きること、それだけをもって
自らの人生を悲しく誇り、いたわらなければならない。
自分以外の存在は景色だ。
大きな感動や、生きる道筋を示してくれる。
けれど、そのことと、自分がどうするか?は
実は全く別の問題なのだ。
いつから、自分で、いつまで自分なのか?
どこから、どこまでが自分なのか?
どこからきて、どこへゆくのか?
考えれば考えるほど、わからなくなる。
自分の定義なんて、不可能だけれど、
現在目の前の事象に挑む自分の存在だけは
自分だと、信じていたい。
おろそかにしないためには、おおきな決意が必要だ。
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