ひとにやさしく [麻雀]
麻雀の定石にのみ価値があるなんて思ったことはない。
基本的なことは、それが必要だ、と個人が望むのであれば学べばよい。
私は、「麻雀を勉強したい」と依頼されない限り、
他人の麻雀に口出しなどするつもりはないし、したことはない。
その打牌が、麻雀と対局者を大切にしているのだ、
と分かるものであれば、何の不満もない。
リーチに無スジを切っても構わない。
真剣な重い一打であれば、振り込んだって尊い。
逆に、本から拝借したような、浅知恵の一打は、胸糞が悪い。
麻雀の価値は、心に響くか、どうか。
それ以外にない。
よい麻雀は、凛凛しくて、粛々としていて、そしてやさしいのだ。
もう一度、あなたと、打ちたい。
そう思う人間がいること。そう思ってもらえる人間がいること。
それに勝るしあわせなど、ないだろう。
ちなみに、私は、賭けた麻雀は博打だと思っている。
私にとって賭けることの目的は、お金だからだ。
お金を持ってかえることが、至上の目的。
博打の麻雀には、博打の麻雀の理がある。
金がすべて。
それを間違っているなんて、全く思わないし、
むしろすがすがしい、とさえ思う。
私の師匠は、メンタマが飛び出るくらいのレートで打っていた、と訊くし、
私も、賭けたときのひりひり感は、大好きだ。
本当の大正義は、賭けようが賭けまいが、
よい麻雀を打てること、なのだろう、と思うけれど、
私にはきっとそれができない。
賭ければ、麻雀は間違いなく豹変する。
何が本物か、何が贋物か、わからなくなる。
つかさ会の連中は、「麻雀、賭ける必要はない」という。
「そうだね」
といいながら、なんとなく、心が申し訳ない気持ちになる。
私が、彼等に模範のつもりで打っている麻雀は、きっと、私の麻雀ではない。
だって、もう、長い間同じ相手と打っている。
打牌や癖、そういったものを熟知しているから、大名麻雀になる。
麻雀は不特定に人間と戦うもの。
再戦にのみ長けている麻雀に何に価値があるのか
と思わない日はない。
賭けたマージャンで、チャンタとか和了したことないし、
トップは、3900点や1300点を重ねて取ることが多かったから。
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つかさ会。どようび。
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