覚めていて、冷めていて、でも醒めることはない。 [TSUKASA会]

 よい仕事、とは、その対価に値しない。

金銭や、社会的な地位に価値を変換できてしまう仕事は、

所詮、資本主義社会のシステムに則った仕事に過ぎない。

労働の対価の金銭。

時間の対価としての金銭。

愛情の対価としての金銭。

そして、和了の対価としての金銭。

それは、それをそういう風に等価交換することで、

むりやり等記号で結ぼうとしている哀しい所作。

現在の私には、麻雀に費やす時間とお金、

れが自分でもよく分からないなにかに、不等価交換されているような気がする。

全て、自分の責任。だけど、やるせない。

麻雀を打ちたい、と思うことはない。これが残念な本当。

ただ、麻雀を通して、他人と語りたい、とは切実に思う。これも、本当。

打牌で語る、というヤツだ。

そうは思いながらも、

最近は、「よい麻雀を打ってやるぞ!」と思う気持ちよりも

「どうぞ、みなさん、麻雀を楽しんでくださいませ」という気持ちのほうが強い。

何をどうやっても、どう考えても、がんばれないときってある。

ハーロック先生は、そういう時は、寝転がってなさい、というけれど

寝転がって、もう1年以上経つ。

(注:ハーロック先生とは、宇宙海賊キャプテンハーロック先生のことである。

ぐぐってくれたまえ。男っぷりのよさでは、並ぶ者はいないぞ)。

ひろりん師匠は、全力で勝ちなさい、とおっしゃるけれど、

その「勝つこと」に意味を感じることができない。

もう私には、そんな気持ちは無くて、それよりも、少しでも

次の世代が育って欲しい、そればかりである。

早く引退して、麻雀に懸命な若者を眺めていたい。

卓につくと、自分のキャパを超えたたくさんのことを考えてしまうから、

正直、苦痛というよりも、その思惟の交差に疲れ果ててしまって辟易とする。

細かいことをたくさん考えて、

「ああ、それでも地球は廻っているのに。いいじゃん、別にそんなこと。」

などと、考えてしまう。

神は天にありて、世は全てこともなし。

どんなに積極的な挙動も、所詮歳差運動に過ぎないということ。

くるくる不安定に廻り続けて、どこにも辿り着けやしない。

自分の牌姿なんて、今ではスマふぉで撮影しないともう覚えてはいられない。

目は覚めていて、目的もある。自己欺瞞の影を落としてはいるけれど。

次の世代の麻雀が、「いい麻雀だね」と思ってもらえるのであれば、それでいい。

気持ちは冷めていて、本当に冷め切っていて

もう決意のもとに「よっしゃやったろかーい!」と

覚醒することは2度とないのかも知れない、と思うほど。

ひんやりしている。

実際、成績ものび太クラスに撃沈している。

そして、それをどうでもいい、と思っている自分もいる。自分のことなど瑣末なことなのだ。

自分の麻雀に全く興味がない。

これは、きっとたいへん身勝手な考えなのだろうけれど、

本当にどうにもならないくらい、情熱を失っている。

ムリをして、自分の意思決定のもと、我慢をし続けた自分の麻雀と思われる何か。

自分で、それを自分のものと思っていないのに、大切になどできないし、したくもない。

そんな気持ちでしか他人と同卓している、そのことが、たまらなく申し訳ない。

けれど、気持ちだけはどうにもならない。

まよっているのだとおもう。何にまよっているのかもわからないくらい。

早い話が、まよいマイマイちゃんになっているのだ。

答えが、自分の心の中にある、とするならば、

現在そこには、きっと、問いも答えも何も無い。

虚無な麻雀に対する未練という残滓がにじむ。

そんな気分ではあったのだけれど、Y氏にはお会いしたかった。

錆付いた私の麻雀ではあるけれど、Y氏との同卓は望んでいた。

私の未来は、もうそんなに選択肢もなく

再び麻雀への情熱を思い出すことができるのか?もしくは

 このままジジイになって、

「わしゃ若い頃に、チャンタを和了してなあ!」

なとど、のたまう、この2つのうちのどちらかなのではないだろうか?。

Y氏の牌捌きを、なつかしく感じながら、ツモ山に手をのばす。

さss無題.png

パラロス本家↓

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つかさ会。どようび。

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