打牌の理由 [九州麻雀ほうろうき]
人間は、考える葦である。
自分が無知であることを自覚してしっかり考えること。
と、歴史上の哲学者は問う。
そのことには、等しく価値がある。それは間違いのないこと。
けれど、考えること、そのことが打算にならないようにしなければならない。
こうすれば、自分は損はしない、でも・・・
こうすれば、自分は得をする。でも・・・
この損得をしっかり勘定したうえで、どれだけ他人のことまで考えることができるか?
いや、他人のことをしっかり考えたうえで、
他人に納得していただくことを、自分の嬉しいこと、とすることができるかどうか?
これが、一番大切なことではないだろうか?
私の今回の打牌の理由は、あまりにも自分本位だし、届いていない。
③④⑤⑦に⑥を引いた。
尖牌である⑦を繋いでの3面待ち。③④⑤⑥⑦
この牌の変化をどう感じるか?
①②③③④⑤⑥⑦⑦⑧⑨南白白 ツモ⑥ 打南
まず、藤岡先生は、この半荘は攻めている。
そして、白をポンしての3900点を見送っている。
それらのことが、矛盾なく今回のリーチに繋がる。
以下の私の理由。これらは、損得勘定でしかない。
一発裏がないので、リーチには以下の効果しかない。
・他家を押さえつける。
・7700点が8000点のツモ和了になる。
・6400点が8000点のロン和了となる。
これらと引き換えに、捌かれるリスクを負う。
リーチを打った藤岡先生の捨て牌には、上家である親番の欲しそうな牌がいっぱい。
リーチを打って、親番の上家であるところの対面がおりて
リーチ者の現物である牌を抜き打つことで、親番が1500か、2900点で和了する。
そのリスクが生じる。リーチを打てばさらに1000点を供託するわけだから、
もし、リーチを打って最悪親に振り込めば、リーチ棒を含んで、
2500、3900点の失点となり非常にリスキー。
いずれにせよ、リスクが高い。
本来であれば、打ち出されない牌がリーチによって、ほりだされてしまい
勝負手をつぶされてしまうことは、なんとも切ない。
だから、リーチは打たない。
これらのことをしっかり理解したうえで、なおも
自分の打牌への姿勢への整合性と、牌の変化を信じて
「和了を拾いたい」という我欲を捨てて、リーチなのだ。
リーチを打つことの理由が、これらの打牌の優位性を理解したうえで、なお
・手牌を信じて組んできたこの半荘での戦う姿勢。
・白を仕掛けずに、③④⑤⑦への⑥引き。
脇からのダマのロン和了ではなく、正々堂々ツモ和了にかける。
充分形としての最終形だからだ。
これは、我々が当たり前としてきた「感性の麻雀」である。
いつしか、わたしは、考えていること、それのみを理由にして
怠けることをおぼえてしまっていた。
考えることは、当たり前。誰だってできる。
そんな当たり前のことだけを理由に打牌を紡いで、
それが誰かの心に残るだろうか?
「リーチはありえない。」
だが・・・これは敢えてリーチだ。⑥引きにそれを感じたから。
点ではない、線の麻雀。
⑥を引いたことと、和了とは関係ない。
白を仕掛けなかったことと、リーチを打つことは関係がない。
麻雀の事象は、言語化できる部分は点の部分。
それ以外の事象は確かに、言語化困難ではある。
では、逆に、これらが関係ない、といえる理由も存在しないではないか?
流れとか、ツキとか、そういうものも、存在していないということが証明できない以上
それは存在していないこととはなり得ない、のではないか?
以前の私なら、このリーチに「なぜ?」などとは思わない。
「当たり前のことを考えた上で、なお、」
のリーチであることは言われるまでもない、からである。
つかさ会。どようび。1月10日。
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