博打の魔力 [哲学する麻雀]

きっと、本当の博打は、「負ければすべてを失う」そういう勝負を指すのだろうと思う。

だから、私のそれは博打ではなく、小博打だ。子供向けの博打である。

負ければ、終わる。

そんな状況で打つ麻雀は、とてつもなく高揚する。

正しくは、負ければ、終わる。のではなく、

負ければ、大変なことになる、金銭的な意味で。という程度なのだが・・・。

そういう背水の陣(金銭的な意味で)で戦っている自分にも酔う。

そして、そこからの生還が、とてつもなく、快感なのだ。

ああ、よかった、という安堵感。

そして、その生還の瞬間、日常が希望に溢れる。

博打の持つ、その非日常。

それを、味わうことで、日常の「ありがたさ」を思い知る。

そういうものを、知れなければよかった、と思う。

もう10数年、賭け事には、手を出していない。

堅実に痛みのない世界で、できることだけを、安全にこなす日々。

でも、不謹慎かもしれないけれど、ときおり思うのだ。

人生そのものが、博打のような要素をもっているのではないのか?と。

勝ちたいから、勝つために、最大限の準備をする。

果てしない努力を重ねる。

そして、人事を尽くして天命を待つ、のだ。

そうすることで、博打のもたらす、偶然は、人為的に必然になる。

未来のことなど、思い通りになるはずがない。

けれど、後悔しないために最善を尽くす。

できることは、すべて行う。

その可能性を0.1パーセントでも高くするため。

そして、その結果がままならなくとも、痛みを受け止める。

保険をかけて、「勝つための努力を怠る」

「安穏と日常をむさぼる」よりは、はるかに勇ましい生き方だとおもうし、未来につながる。

そう考えてゆくと、こうゆうふうに人事を尽くして臨めば、

それはもはや博打とは呼ばない気がするのだが・・・

いわゆる、よろしくない博打というものは、2つある、とおもう。

というか、博打の問題点はこの2点だとおもう。

①「理不尽だ」とおもわれるもの。

「運に身をゆだねて、努力をせず、安易に成果を求める心根」

②弱いものいじめ、「卑怯」であること。

「弱者から奪うこと」を目的としているもの。

あくまで、私見だ。

そうして、これらのことを考えるとやはり、わたしにとって

「麻雀は、博打、とはなりえない。」のだ。

そう私自身を括り付けていてくれるものが、現在わたしと同卓してくださっている皆様である。

「最大限の努力を注ぐものが、麻雀だ。」ということが、彼らのデフォルトである。

それが、当たり前のかれらに、金銭の介在する余地はない。

「お金に隷従」してしまっている私にとって、彼らは「天使」に見える。

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