睥睨する一打(デバサイ) [麻雀小説]
そして、大会当日。
それが懇親の大会であっても、勝負である以上、勝たねばならない。
自分の麻雀はひろりんの麻雀。
いつも師匠に後ろ見されていると思い、打たねばならない。
5回戦。
得点の一番多い人間が優勝だ。
1回戦から4回戦まで全てトップ。
残る5回戦もトップをとり、完全優勝を狙いたい。
最終卓は、その地点でトータル2着目のK氏と、目無しの2人。
K氏がトップをとれば、私は2着となる。
だが、各半荘ごとに商品がでるので、トップには意味がある。
わたしは、果敢に攻める。
少しギアが入りすぎているのかな、とも思ったけれど
慎重になりすぎて風下に回ることが怖かった。
最後の麻雀なので、真剣に全力を尽くしたかった。
マンズの下に寄った和了が続くもエラーもなく、南2局の自分の親が落ちるころには43000点を持っていた。
あと2局。
南3局もいなし、オーラスへ。
ドラ八
2着目のK氏の親番を残すのみとなる。
私は、白を仕掛け、
のテンパイ。
親のK氏のリーチ。2段目の捨て牌は
六北⑦4
六も⑦も手出し、4も手出しだ。
私は④をツモリ
⑦を切る。
④⑤⑥⑦⑧北北 チー312 ポン白白白
その⑦を下家がチーした。チー⑦⑧⑨だ。
下家は7000点持ち。
仕掛けたところで、なんの意味もない。
トリプルツモ以外無意味だ。
私は、仕掛け晒された⑦⑧⑨のターツを睨みつける。
「なんなんだ、これは?なんだ、この状況は。
おれがどれくらいの想いを麻雀に賭けているは分かっているのか?
だから、嫌なんだ。本気になればなるほど、その温度差に気分が悪くなる。」
次巡、三を掴む。
親リーの現物である六ワンの筋。
一瞬、もう一枚の⑦に手がかかる。
「このまま、下家に和了してもらうか?そうすれば優勝できる。」
そんな思考が脳裏をよぎる。
意味のない和了での終局。
だが、そんな気分の悪いことをして結果勝ったところで何の意味がある?
ばかばかしい。このまま⑥⑨待ちで押す。
三を切る。
リーチタンヤオ三色ドラウラ、18000点に刺さる。
デバサイ。
完全優勝どころか、優勝も逃す。
冷静に打てていれば、⑦⑧をはずしマンズで受けることができているはずだ。
マンズの下にアヤは感じていたのだし、丁寧に打てば、三色目の残る三は切ることはない。
状況に我慢ができず、辛抱できなかったことが敗因だ。
けれど、意味のない他家の和了でおこぼれトップを貰うくらいなら戦って2着のほうがよい。
そんな暴走気味の一打である。
麻雀から答えを貰った気がした。
「嫌な、麻雀なら打つな」
である。
麻雀ではないものを、あたかも麻雀のように慰み者にしていた私への訓告だ。
他人の姿勢がどうあれ、私だけは牌に謙虚でなければならない。
奇しくもこの半荘を起点にして、麻雀の温度が高い人間が少しずつ私の周囲に集まるようになる。
K氏からは「よい、麻雀でした。感動した。」との言葉をいただく。
それを受け、いや違う、これじゃないんです、もっともっと、よい麻雀を、深い麻雀を打ちたいんです。
と心底思った。
もう一度、麻雀と向かい合おうと決めた。
嫌な思いをする麻雀はもう2度と打つ必要がない。
だが、そのかわり。
あれから、2年。
現在、私の周囲には、牌の声に耳を傾けることのできる人間がたくさんいる。
あの18000点は「冷ややかに麻雀に絶望していた私」への叱咤の一撃だった、と思う。
どんなに努力を積み重ねていても、波が砂の城を攫うように、一瞬にしてその苦労が霧散してしまうことがある。
けれど、もう一度辛抱して積み重ねなおすことができるか、どうか、それをいつも牌に問われている。
現在の私ならば、三は打たない。
いやそもそも白を仕掛けない。受けの牌が準備できるまで面前で構えるだろう。
2年前のあの頃よりも、牌の声があたたかく耳に入るようになった。
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それが懇親の大会であっても、勝負である以上、勝たねばならない。
自分の麻雀はひろりんの麻雀。
いつも師匠に後ろ見されていると思い、打たねばならない。
5回戦。
得点の一番多い人間が優勝だ。
1回戦から4回戦まで全てトップ。
残る5回戦もトップをとり、完全優勝を狙いたい。
最終卓は、その地点でトータル2着目のK氏と、目無しの2人。
K氏がトップをとれば、私は2着となる。
だが、各半荘ごとに商品がでるので、トップには意味がある。
わたしは、果敢に攻める。
少しギアが入りすぎているのかな、とも思ったけれど
慎重になりすぎて風下に回ることが怖かった。
最後の麻雀なので、真剣に全力を尽くしたかった。
マンズの下に寄った和了が続くもエラーもなく、南2局の自分の親が落ちるころには43000点を持っていた。
あと2局。
南3局もいなし、オーラスへ。
ドラ八
2着目のK氏の親番を残すのみとなる。
私は、白を仕掛け、
のテンパイ。
親のK氏のリーチ。2段目の捨て牌は
六北⑦4
六も⑦も手出し、4も手出しだ。
私は④をツモリ
⑦を切る。
④⑤⑥⑦⑧北北 チー312 ポン白白白
その⑦を下家がチーした。チー⑦⑧⑨だ。
下家は7000点持ち。
仕掛けたところで、なんの意味もない。
トリプルツモ以外無意味だ。
私は、仕掛け晒された⑦⑧⑨のターツを睨みつける。
「なんなんだ、これは?なんだ、この状況は。
おれがどれくらいの想いを麻雀に賭けているは分かっているのか?
だから、嫌なんだ。本気になればなるほど、その温度差に気分が悪くなる。」
次巡、三を掴む。
親リーの現物である六ワンの筋。
一瞬、もう一枚の⑦に手がかかる。
「このまま、下家に和了してもらうか?そうすれば優勝できる。」
そんな思考が脳裏をよぎる。
意味のない和了での終局。
だが、そんな気分の悪いことをして結果勝ったところで何の意味がある?
ばかばかしい。このまま⑥⑨待ちで押す。
三を切る。
リーチタンヤオ三色ドラウラ、18000点に刺さる。
デバサイ。
完全優勝どころか、優勝も逃す。
冷静に打てていれば、⑦⑧をはずしマンズで受けることができているはずだ。
マンズの下にアヤは感じていたのだし、丁寧に打てば、三色目の残る三は切ることはない。
状況に我慢ができず、辛抱できなかったことが敗因だ。
けれど、意味のない他家の和了でおこぼれトップを貰うくらいなら戦って2着のほうがよい。
そんな暴走気味の一打である。
麻雀から答えを貰った気がした。
「嫌な、麻雀なら打つな」
である。
麻雀ではないものを、あたかも麻雀のように慰み者にしていた私への訓告だ。
他人の姿勢がどうあれ、私だけは牌に謙虚でなければならない。
奇しくもこの半荘を起点にして、麻雀の温度が高い人間が少しずつ私の周囲に集まるようになる。
K氏からは「よい、麻雀でした。感動した。」との言葉をいただく。
それを受け、いや違う、これじゃないんです、もっともっと、よい麻雀を、深い麻雀を打ちたいんです。
と心底思った。
もう一度、麻雀と向かい合おうと決めた。
嫌な思いをする麻雀はもう2度と打つ必要がない。
だが、そのかわり。
あれから、2年。
現在、私の周囲には、牌の声に耳を傾けることのできる人間がたくさんいる。
あの18000点は「冷ややかに麻雀に絶望していた私」への叱咤の一撃だった、と思う。
どんなに努力を積み重ねていても、波が砂の城を攫うように、一瞬にしてその苦労が霧散してしまうことがある。
けれど、もう一度辛抱して積み重ねなおすことができるか、どうか、それをいつも牌に問われている。
現在の私ならば、三は打たない。
いやそもそも白を仕掛けない。受けの牌が準備できるまで面前で構えるだろう。
2年前のあの頃よりも、牌の声があたたかく耳に入るようになった。
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2012-11-21 18:21
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