訊ねてはいけないこと [閑話休題]

麻雀が博打だった頃に、麻雀を好きになった。


だから、他人の麻雀について、


その意図を尋ねたり、


観戦したり、などということに対して


現在でも少なからず抵抗がある。


「訊ねなければわからない」


という理由から


「訊ねている」


そのことが、


なんだかとてもいけないことのように思えてしまうのだ。


例えば、映画を観て、おのおのがその感想を持つ。


私の観た感想と、誰かの感想が同じであるはずはないし、


同じである必要はない。


そういう答えあわせは「野暮」だ、と思うのだ。


私の思うところに一打の理由が


その同卓者の麻雀観を踏まえてどのように


感じられているのか?


そのことを、どうだったのか?確認をして


何らかの解を得ようとすることって、


なんとなく無粋な気がしてならない。


現代の麻雀では、


手牌はおろか、牌山まで衆目に晒される。


そのことに平然となれない自分がいる。


つかさ会では、勉強の為に


手牌オープンで対局を、などということもあるけれど、


そういうときに、


きっと、わたしひとりが、勝手に


罪の意識に(勝手に)さいなまれているのだ。


つかさ会では、


「勉強会なのだから、終局後の手牌オープンは


励行しましょう!」


という、勢いのある意見も多い。


ただ、自分だけが、


「麻雀の牌は伏せられていて


その姿がわからないからこそ、魅力がある」


と思い込んでいるだけなのだ。


そういえば、


仲間打ちでも、他人の麻雀についての口出しは


ご法度だった。


フリーでもそう。


後ろで観戦!


とか、ぶっとばされてたもの。


時代が違うんだなあ、きっと。


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