大きな勘違い [哲学する麻雀]
麻雀っていうのは、
長い長いスパンで、その内容と結果を考えるものだ、と思う。
切ってはいけない、と思う牌が、
突然その瞬間だけ、
切ることを許されるようになる、なんてことはおかしい。
そういう矛盾だけは、やはりおかしいと思うのだ。
特に最近よく感じることは、
点棒がなくなって選択肢を失った場面での「無茶な打牌」。
例えば、オーラス、ラス目の親番。
「ここは、ゼンツ」
おかしいでしょう?
「無理に染めよう」
おかしいでしょう?
麻雀はそんなに簡単なものではないはずだ。
もちろん、ダンラスの親番なら
高得点を組みにいくべきだろうし、
押し気味に打つこともアリだろう。
けれど、点棒を持っていない、点棒が欲しいことが
ゼンツ!なんてゆう無敵な状態を生み出すことはおかしい。
どうせ、ラスなら、攻めたほうが得、
なんていう考え方は、半荘単位の麻雀。
そういう麻雀で、失うものは、点棒だけではない。
その半荘の損得だけを考える拙い麻雀だ、と私は思う。
もっと、もっと、大きく考えよう。
1日、1週間、1年、10年、一生。
長い長い時間を感じて、大切に大きく大きく麻雀を受け止める。
どんな時でも、必要な状況判断を怠ることなく、
その状況での精一杯を重ねる。
大きな意思を礎とするラスであれば、必ず未来へ繋がる。
安易なトップより価値のあるラスだって、きっとあるはずだ。
麻雀の一打は、とてつもなく重い。
誰かの心に残ることができたり、
思いがけない未来へ繋がったり、
うつむかなければ、果てしなく希望へ繋がる。
その緊張感だけは、どんな時でも
どんな相手とでも、失ってはいけない、と、思うのだ。
麻雀は、一生をかけて、描ききる夢の足跡。
自戒の念も込めて、おろそかにしないことを、肝に命じる。
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