気づき、について。 [閑話休題]

 オカルトだ、デジタルだ、と住み分けがされる昨今。

人の心や生き方が「デジタル」なわけないじゃん。バカじゃないの?と思う。

十人十色、心のかたちはそれぞれだから、素晴らしい。

もちろん、「デジタル」な実証できることも大切だけれど、それだけじゃない。

例えば親リーチとは戦わないほうが、よい。

という、論理的に統計上正しい事実があって、これはこれで、

とても大切なことで、ないがしろにしてはいけないけれど、

それだけではない可能性がある、ということ。

この「それだけではない」ということに、気づくためには、

まず、基本的なことは、全て当たり前にできるようにならなきゃダメだ。

とにかく、準備。

教科書忘れて学校に行っても、寝るしかすることないでしょ?

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最終局。親の先制リーチ。

点棒は、その親番の北家以外は、全員30000点オーバー。

三四五③⑤234567778

ソーズが高い親リーチに、無スジの2ソウや8ソウを押せるか、?

という場面。

「戦うべきではない」振り込むと、終わるから。

が、マジョリティだと思うし、私もそう思う。

「戦うことは、損なのだ。」

後ろ見させていただいていて、ああこれは、

8ソウ2ソウと打ち出すだろうな、と思った。

巡目の浅いリーチであれば、7ソウのワンチャンス、とかいって

確率的には8ソウを切っても構わないのかもしれない。

この局我慢して、次局に繋げることだけが必ずしも、よいこととは限らない。

次局、和了できるとは限らないわけだから。

だから、345の三色を見て、2ソウや8ソウを切っても構わない、と思う。

ただ、問題なのは、考えなければならないことは、

その切り取った「2ソウや8ソウを切り出す」という

その牌が安全、安全ではない、の確率的なことではなく

そもそも、親の捨て牌を軸に局が展開する可能性の高い

もっとも大切なオーラスにおいて、

その状況判断の準備ができていたのか、どうか、ということ、だと思う。

オーラスというものは、その半荘、4人の全ての答え合わせのクライマックス。

それが、自分の打牌で決着してしまって、問題ないくらい考えているか、ということ。

親の河に飛んでいる色や数に最終形を寄せる努力。

これを、考えていましたか?ということ。

その準備をしていて、押せるソーズを整えていたわけでもないのに、

その努力を怠っていた、(言葉はきついけれど)

そのことに「気づけている」かどうか?

そこを考えていて、考えていたけれど、

なおかつ、手牌が伸びきって切り出すソーズなら

和了されたとしても、「精一杯」の結果だ。

強い振込みだ。

けれど、そうではなくて、ただ「和了すればいい」

「いらないから」という理由で、2ソウや8ソウを切り出すことは、

やはり、4人で打つ麻雀としては許されない、と私は思うのだ。

同じ一打でも、その想いで、「価値が変わる」。

手なりに、まっすぐ打てることは、大切だけれど

そのための準備はできてますか?

それを、いつも、自分に問いかけて欲しい。

気づき、決断することで、世界は変わるかも知れない。

無222.png

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