感性という名の誤謬 [哲学する麻雀]

三四八八⑥⑧45888北北

3巡目、ドラ八

例えば、こんな形からのカン⑦のチーってどうなの?

という平面上のお話。

カン⑦は鉄チーでしょ?

というマジョリティの中、⑦は仕掛けない。

⑧を引けば、やはり何度考えても三を切ってしまう気がする。

実際にこの形を3巡目にもらうことってどういう意味なのかな?

と考えてしまう。自分なりの自分だけの解釈。

要するに平面で判断しなければならない数の理屈に、立体的な感覚を重ねて感じる。

数理の世界に、己の思惟を重ねてみなければ気がすまないという誤謬。

この説明のできない感覚。

おうちに帰って、いくつか想い出深い自分の牌の形をたどってみると

やはり、尖牌1枚から横に組んでいるケースは少ない。

もちろん、まだ、これから、尖牌を引き入れて組み上げていくというケースもあるのだろうけれど、

自分のなかの身勝手な感覚が、3巡目まで、横に動く牌を引けていないからタテに組む。

と判断する。

和了易さとか、テンパイまでの距離とか、そういうことを全く考えずに形をいれることを考える。

三四八八⑥⑧45888北北

3巡目ならば、測りたい。

⑧を引くことで、方向づく3色同刻を意識したタンヤオドラドラ。

トイトイを入れるか否かは、このあとの場に増加してゆく情報をもとに考える。

なので、⑧を引けば一番横に伸びそうな三ワンを切る。

二を引くとタンヤオ一本道となり、受けがなくなる。

⑦をチーして、二をチーして

八八45888

のテンパイに、ものすごく抵抗がある。

三種類の牌しかない。

食い仕掛けは建設だし、ドラ八を抑えている地点で、これは優位にたてる強い仕掛けだと

理解できているのだけれど、そうできない。

二三四とマンズを一メンツ河に重ねても、四⑥⑧5の偶数牌に魅力を感じる。

「やりすぎなんじゃない?」

と自分の思考を俯瞰すると思うし、

「やっぱり、有り得ない。」とも思う。

おそらくひろりん師匠も

「牌を大事にしなさい!」

と激おこぷんぷん丸になるかもしれない。

何故、3900点じゃダメなの?

ドラの八ワンがもう一枚くれば7700点だし、得点的にも和了そのものにも意味がある。

私の打牌選択の理由はもちろん3巡目だから。

この目に見える13枚を疑ってしまう。

そんな簡単でいいの?って。

素直さが足りねえ。

もっと、いろいろワクワクときめきたいから。

三四八八⑥⑧45888北北

四八八⑥⑧⑧45888北北

⑧を引けば三を切る。

⑤を引けば、⑧を切る。

三四八八⑤⑥45888北北

北で受けながら、面前で。

ソーズの状況やピンズの状況を精査。

情報を収集して、最終的に他家の攻めに耐えうる部分が準備できたならば、仕掛ける。

ピンズで受けるなら、マンズ、ソーズをチー。

マンズで受けるならば、ソーズ、ピンズをチー。

ソーズで受けるならば、マンズ、とピンズをチー。

受けの準備ができなければ、仕掛けない。

北を2枚面前で組む。

自分に受けの準備がなく仕掛けて他家に牌を送り込むという結果を避けたい。

四八八⑥⑧⑧45888北北

⑧を引いたならば三ワンを切り、2②や字牌を一枚づつでも抱えて重ねる。

⑧を引いた地点でタテの牌の理屈にしたがう。

すなわち四メンツは、

八八⑧⑧88北北

であり、あと2枚、縦に重なればリャンシャンテン。チートイドラドラである。

仕掛けるおまけ付きと、他家への牽制のおまけ付き。

マンズの三四当たりをターツで続けて払い、字牌を集めれば、他家に少なからずとも

「対応させる」楔(くさび)を打ち込むことができる。

カンチャンターツをチーして、両面チーだと、タンヤオ本線の仕掛けで

他家も三色の色と場所とドラをケアすればよいだけだから、「対応しやすい」可能性が高い。

チーをすれば、三枚情報がさらされるが、ポンなら一枚。

しかもその1枚の色と場所によっては、他家も対応せざるを得ない。

例えば、⑧ポンだと、⑥⑦のターツを払う、など。

八八⑥⑧⑧24888東北北

こんな感じで組んでゆく。

両面ターツをカンチャンに組み直して、攻撃の要とする。

この戦術も選択肢として私の中に存在する。

これが精一杯の思考の積み重ねであり、

実は「縦に重ねて意味を持たせたい」ということは、その熟慮のなかに含まれないことに気づく。

でも、毎回こういう打牌選択になるか、というとそうでもなく、

こういうタテ仕掛けが「自分の中で印象強く残っている」だけなのかもしれない。

しのぶさんは、意思を持たないであろう牌に己の意思を刻み込むことも麻雀、だとおっしゃる。

その通りだ。

確かに、牌に意思などあるわけないし、事象としては物体を利用して数理ゲームを行っているだけ。

大数のもと発生しうる事象に特別な意味を勝手の持たせようとしているだけだ。

人間は、その本質的な部分に発信機を持っていて、

自分に内在する想いを他人に伝えたいと思う、他人と繋がりたいと願う群体の生物だと思う。

それが音楽であったり、小説であったり。

麻雀もそのひとつの手段。

おのれの思惟を意思を表現するひとつの手段だ。

意味を持たせようとすることではなく、結果どれだけの意味が存在したか?

でしか、その価値は測れない。

例えば、りんごが1つ存在するとする。

りんごは存在していて、また、われわれの脳で認識されて、実在しているという定義になる。

それにたいして、

「私の大好きなりんご」

だとか、

「私の思いのこもったりんご」

だとか、

「だれかに届けたいりんご」

などどいう意味を持たせることと、りんごそのものの価値とはなんの関係もない。

「りんご」は、われわれが意思を持たせようが持たせまいが「りんご」として存在している。

麻雀も同じ。

ただ、そこに存在しているだけだ。

「意味を持たせる、」「意味を持たせたい」という思考そのものが思い上がっていて、

結果を大切にすることに、意味が生まれるのかな、と思い直す。

意味を持たせたいから、縦に組むのではなく、

縦に組んだ結果、そこに生まれた意味を大切にする。

という考えのほうが、説得力がある。

「意味を持たせたいから」「この牌の意味を考える」を理由にするのではなく、

最大限の努力をその一打に注ぎ込み、その結果が意味のあるものになる、のではないだろうか?

「こういう麻雀にしたい」

よりも

「悔いのない麻雀だった」

のほうが、意味がある気がするのだ。

だってその打牌の意味など、切り出してみなければわからないわけだし、

事前にその打牌の意味を準備するという論理は何かおかしい気がする。

精一杯考えて組んだ、タテの牌組。

意味があることをした、と思い上がるのではなく、自分の選択そのものに

結果、意味があったかを謙虚に受け止めることができるように、姿勢を改めたい。

私はどうやら、意味を持たせようとすることを感性だと勘違いしているようだ。



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