ドラポンなんて怖くない。 [哲学する麻雀]
ドラを大切に。
これは、いつも私が口にしていることだけれど、どうやらうまく思いが伝わっていない様子。
ドラは、みんなが大切にしているものだから、大切にするべき、粗末にしてはいけない、ということだけで、
目的はドラを集めることではない。
麻雀はドラを使って、そう、ドラを軸に進路をはかり「よい麻雀を打つ」ことを目指すもの。
ドラは目的ではない。目的の為の手段だ。
だから、ドラをお金だと置き換えてみればわかりやすいだろう。
もちろんお金(ドラ)ばかりを集め、意地汚く下品な和了ばかりを目指す人間もいるだろう。
それで満足できる思慮浅い人間ということで、それはそれでよい。
勝手にどうぞ。
あの世までドラを持って行ってください。
よく「ドラがアンコウだったのに」
とか口にする人間がいるけれど、「よく恥ずかしくないよね」と憐憫の情すら覚える。
そのドラアンコウにあなたの何の努力があるのか?と問いたい。
ウラドラが乗ることを誇らしげに自慢する、下品な人間を見かけるけれど、
そのウラドラは、「偶機」。
ただの事象だ。
そういう下品な麻雀を打つ人間は、物事を「他人と共有する」というバランス感覚も持ち合わせていない。
自分さえよければ良い、という人間がほとんどだ。
けれど、賢い人間は、目的の為にドラを活用するのだ。
より良い麻雀の為に精一杯努力するのだ。
配牌からあるドラで楽をしない。
生まれながら持っていた財産などに頼らない。
偶然の幸運など当てにしない。
確固たる信念を牌に注ぐ。
だから、全てがしなやかで、さりげなく、居心地がよい。
技術的なところでいえば
例えば、ドラを鳴かせて面前でバイマン見える牌姿をマンガンの落とさせたり、
ドラを煙幕に使用したり。
ドラに縛られないのだ。
ドラは二枚重なるだけで、打ちスジに影響を与えてくる。
配牌で、ドラが二ワンとして
二五七九②③⑥⑨688東発
なんていう所へ、ドラの二ワンをツモッてくるとする。
やはり、なんだか和了を目指したくなる。
二ワンドラアンコウなんてことになった日には、無理やりタンヤオにしてでも和了したい、なんて思ってしまう。
そう、それくらいドラは人をそそのかすのだ。誘惑してくるのだ。
だから、ドラそのものに惑わされぬようドラの役割をきっちり意識する必要がある。
私は、ドラはおまけだと思っている。
数の軸にするし、その意味も軽視しないけれど、所詮ドラだと思う。
ドラ3よりピンフのほうが立派だと思う。
役には意味があるし、場を反映した鏡となりうるから。
ドラは、値段が高くなる、ただ機械的にそれだけである。
例えば
オーラス1000点の和了でよい、という状況ならば、あえてドラターツを打ち出し
和了しやすいところで牌を組むというのもひとつの手段。
ドラを打ち出し、場を安くするというのもひとつの手段。
大切なのは、ドラを利用した工夫を凝らすことだ。
ドラは、手牌に1枚。
それくらいが美しいと思う。
ドラアンコウとか、やはり何か醜悪な感じがする。
またドラをポンして値段をつくる輩など怖いと思ったことはない。
生まれついて財産を持たない人間が、努力と工夫で豊かな人生を送ることができるように、
ドラに依存しない牌構成で、よい麻雀を表現したい。
畏怖する対象はいつも、切ないくらいの謙虚な積み重ねである。
ドラはその積み重ねる道程のささやかな彩りのひとつに過ぎない。
いつもいつもドラを大事にするものでもなく、「ドラを活用する」という柔らかい意識が必要だ。
つ会開催24日土曜日。
ブログランキングに参加しております。クリック願います。
→
麻雀 ブログランキングへ
ともだちがいない→http://wing6877.blog.so-net.ne.jp
これは、いつも私が口にしていることだけれど、どうやらうまく思いが伝わっていない様子。
ドラは、みんなが大切にしているものだから、大切にするべき、粗末にしてはいけない、ということだけで、
目的はドラを集めることではない。
麻雀はドラを使って、そう、ドラを軸に進路をはかり「よい麻雀を打つ」ことを目指すもの。
ドラは目的ではない。目的の為の手段だ。
だから、ドラをお金だと置き換えてみればわかりやすいだろう。
もちろんお金(ドラ)ばかりを集め、意地汚く下品な和了ばかりを目指す人間もいるだろう。
それで満足できる思慮浅い人間ということで、それはそれでよい。
勝手にどうぞ。
あの世までドラを持って行ってください。
よく「ドラがアンコウだったのに」
とか口にする人間がいるけれど、「よく恥ずかしくないよね」と憐憫の情すら覚える。
そのドラアンコウにあなたの何の努力があるのか?と問いたい。
ウラドラが乗ることを誇らしげに自慢する、下品な人間を見かけるけれど、
そのウラドラは、「偶機」。
ただの事象だ。
そういう下品な麻雀を打つ人間は、物事を「他人と共有する」というバランス感覚も持ち合わせていない。
自分さえよければ良い、という人間がほとんどだ。
けれど、賢い人間は、目的の為にドラを活用するのだ。
より良い麻雀の為に精一杯努力するのだ。
配牌からあるドラで楽をしない。
生まれながら持っていた財産などに頼らない。
偶然の幸運など当てにしない。
確固たる信念を牌に注ぐ。
だから、全てがしなやかで、さりげなく、居心地がよい。
技術的なところでいえば
例えば、ドラを鳴かせて面前でバイマン見える牌姿をマンガンの落とさせたり、
ドラを煙幕に使用したり。
ドラに縛られないのだ。
ドラは二枚重なるだけで、打ちスジに影響を与えてくる。
配牌で、ドラが二ワンとして
二五七九②③⑥⑨688東発
なんていう所へ、ドラの二ワンをツモッてくるとする。
やはり、なんだか和了を目指したくなる。
二ワンドラアンコウなんてことになった日には、無理やりタンヤオにしてでも和了したい、なんて思ってしまう。
そう、それくらいドラは人をそそのかすのだ。誘惑してくるのだ。
だから、ドラそのものに惑わされぬようドラの役割をきっちり意識する必要がある。
私は、ドラはおまけだと思っている。
数の軸にするし、その意味も軽視しないけれど、所詮ドラだと思う。
ドラ3よりピンフのほうが立派だと思う。
役には意味があるし、場を反映した鏡となりうるから。
ドラは、値段が高くなる、ただ機械的にそれだけである。
例えば
オーラス1000点の和了でよい、という状況ならば、あえてドラターツを打ち出し
和了しやすいところで牌を組むというのもひとつの手段。
ドラを打ち出し、場を安くするというのもひとつの手段。
大切なのは、ドラを利用した工夫を凝らすことだ。
ドラは、手牌に1枚。
それくらいが美しいと思う。
ドラアンコウとか、やはり何か醜悪な感じがする。
またドラをポンして値段をつくる輩など怖いと思ったことはない。
生まれついて財産を持たない人間が、努力と工夫で豊かな人生を送ることができるように、
ドラに依存しない牌構成で、よい麻雀を表現したい。
畏怖する対象はいつも、切ないくらいの謙虚な積み重ねである。
ドラはその積み重ねる道程のささやかな彩りのひとつに過ぎない。
いつもいつもドラを大事にするものでもなく、「ドラを活用する」という柔らかい意識が必要だ。
つ会開催24日土曜日。
ブログランキングに参加しております。クリック願います。
→
麻雀 ブログランキングへ
ともだちがいない→http://wing6877.blog.so-net.ne.jp
2012-11-24 01:18
nice!(0)
コメント(2)
トラックバック(0)
逆に考えるんだ
あげちゃってもいいさと(ドラなんか)
という事ですよね。
by 頭文字D (2012-11-29 18:47)
例えば、親にダブ東のドラを鳴かれて、12,000点の仕掛けを入れられたとします。けれど、この親もドラを鳴かなければ、メンホンチャンタなどの手役を注視した手組みをして、24000位を和了できていたかも知れません。ドラを鳴くことで本来見えていた牌組を見失うのです。ドラポンは異形です。ドラを食い仕掛けることができたからと言って、常に優位に立てるわけではありません。常に場の状況に拠って変化すると思います。自分が、親番で、できるだけ失点をすくなくと考えるのなら、一打目のドラ切りもありだと思います。よほど食い仕掛けがたけていない限り1打目をドラポンしたところで、満貫が関の山です。ドラは粗末にしてはいけないけれど、とらわれてもいけない、と思うのです。
by ゆうゆう (2012-11-30 00:28)