感性の麻雀

席替えで 好きなひとのとなりの席になる。


学校に行くことが楽しくなる。


尊敬できる上司のもとに配属された。


会社に行くことだって楽しくなる。


大切なのは、「誰と」だ。


麻雀も、「誰と」が一番大切。


もっと、「いろいろな打てるひとと、麻雀が打ちたい」そう思い


「プロテスト」を受けようとした私に、師匠は


「あなたがよい麻雀を打ち続けていたなら、あなたの周りには


あなたと同じ気持ちの人が必ず集まってくれる。」


肩書など必要ない。


打てるひとの中に飛び込むのではなく、


巡り合った人を大切によい麻雀を打ちなさい。」と。


それを、ずっとずっと心がけている。


どんな相手でも、どんなルールでも、


打たせてもらえるだけで、それが一生懸命打つ理由になる。


同卓者へのリスペクトがないひととは、そもそも麻雀を打つことにはならないから。


いつか、自分と麻雀を打ってくれるひとがいなくなったとき、


そのときは、本当に最後だ。


そこが、自分にとっての麻雀の終着駅。


最後まで、どんな相手でもしっかりとよい麻雀を打てたなら、


それで初めて私は私の麻雀の物語を全うしたことになる。


麻雀を打てる相手が周囲にいなくなったときに、


お金をはらって、フリーに行くことはしない。


打ってもらえる価値のなくなった自分の麻雀に


お金をはらって、他人を巻き込みたくないからだ。


鮮度や品質は、損なわれたなら害になる。


麻雀にすがりつき、余生を慰める道具とすることだけは、絶対に嫌だ。


それこそ、最悪だ。

:::::::::


もう、全ての手出しツモ切りをみることはできない。


仕掛けのレスポンスもよくない。


打てる回数も少ない。


経験は自分の奥底に沈み、感覚に支配される。


けれど、そのおかげで、景色は深くなった。


捨て牌の濃淡。流れ。


これまで、言語化できなかった様々な麻雀の不確定要素が、


重い深い情景として、観念として存在している。


感性に沿う麻雀は間違いなく存在している。


それは、目先の損得勘定を超越した世界。


目の前の情景に符合した打牌を重ねる喜び。


それは、自己欺瞞だよ、と睥睨しながら、


感性のまま脊髄反射の麻雀に傾倒してゆく。


これまで重ねた理屈は、全て、現在の感性の為の時間。


ひとつのツモから、見える景色は、


これまでのそれとはまったく異なってきている。


信じてもらえないかもしれないが、牌が透けて見えていた時期がある。


フリーに朝から晩まで通い詰めていた時期だ。


もちろん、論理的には説明できない。


58sに見えるのだけれど、6sが6777sの形に刺さる、と見える。


タンピン三色テンパイから、場に2枚切れの西を掴み、危険を察知、西を止める。


フリテンのぺん3pでリーチをかけて一発でツモる。3pが寝てることが確信できている。


短い期間だけれど、これは、本当。信じてお願い。www



現在、それに近い感覚に包まれることがあり、その時間は増えている。


揺るぎない一体感。


こうして、綴ってきていて


冷静に考えると、病院に行ったほうがよいのかな、とも思う。


何を尋ねられても、「そんな気がする」と答えてしまう自分がいる気がする。


記憶のほつれや劣化を、感性と置き換えてしまっていたりして。











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JnutivtEsisghedhzur

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by JnutivtEsisghedhzur (2022-12-22 01:17) 

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