まよいまいまい [閑話休題]
わたしは、牌の効率とか、そういうことは
もちろん当たり前にとても大切だ、と思うのだけれど、
それだけで、麻雀を理解できるなどとは、微塵も思っていない。
それは、当たり前のこと。
場況判断とか、高期待値の打牌などは、当たり前に努力するべきこと。
だけど、私はそれ以上に、それ以外のことにも、注意を払いたいと本気で思っている。
当り牌を掴まない、努力。
ここ一番で勝負手を入れる努力。
それらは、全て常日頃と繋がっている。
だって、ツカなくなってしまったなら、どうしようもない。
効率とかなんとか、言ってる場合じゃなくなる。
オカルトと言われようが、私は「そういうことも」とても大切に考える。
「やれば、できるかも知れない。
でも、やらないと、何も出来ない。」
ツキとか、流れとか、は存在します。
そういう要素を無視した麻雀もそれはそれで
その人の信じることだから、善い悪いの問題ではない。
「存在しない」というのであれば、形而上の事柄は
どれも「存在できなく」なってしまう。
とにかく、麻雀は、形而上、形而下、を問わず
あらゆる事柄を綯い交ぜにした事象から、
自分の感性で、道を切り開くもの。
もう、他人と共有したいとは思わなくなっているけれど
信じることの根底にあるものは、微塵も揺るがない。
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ぼんやり、そのひとの麻雀を眺める。
一打の理由がどうだ、とか、効率がどうだ、
そんなステージでのことではなく
その一打に想いがあるのであれば、
その発露を感じたい。
と、そのように願う。
ぼんやり眺めていると、やはりまよいまいまいだ。
決断できないでいるさまが、零れ落ちている。
迷う理由は、自分で決めなければいけない、と勘違いしているから。
道がわからなければ、深呼吸をして世界を見つめてみればいい。
ひとりではない、そのことに気づくはずだ。
同卓者がいて、そして牌がある。
迷うのであれば、場の状況や他家、牌の様相に尋ねればよいのだ。
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確か、こんな感じのシャンテンだったと記憶している。
マンズが強かったので、やはり先にマンズの形が決まった。
三四五五六七②③④⑤5688
ここから、⑤を切る。
ああ、三色がおろそかになっている・・・。
もちろん、三色の手組を成就させるには、
たくさんの条件をクリアする必要があるから、
ここでの②や⑤の切り間違いなど、形而下の理屈的には大きな問題ではない。
だけど、私は、そのようなちいさなことが、
おおきなしっぺ返しになって返ってくることがある、と
いうことをよく知っている。
本当に痛いくらいよく知っているのだ。
オカルトだ、といえばそうかも知れない。
だけど、私は、麻雀におけるの全ての出来事は繋がっている、と信じている。
ちいさな手抜きや迂闊さが、のちのち自分にかえってくること。
また、ちいさながんばりの積み重ねもまた、のちのち自分にかえってくる。
因果応報。
麻雀は真実への道である証、ともいえる事象。
大切なことは、ちいさなことを、おろそかにしないことだ。
余計なことを言うつもりはない。
つかさ会では、めいめいがめいめいの精一杯で
自分の麻雀に臨めばよい。
私は、質問をいただいたことにしか、答えることはしないし、
どんな麻雀を打っていただいても、まったく私の預かり知らぬ世界。
余計なお世話サマーは誰もしあわせになれない世界。
だけど・・
そのひとが、どういう想いでつかさ会に参加しているか、
そのことを考えると、やはりスルーは不誠実だ。
7年近く費やしたであろう時間と、積み重なったゲーム代は
もはやその人生の一部と言ってもよいほど、実は重い。
他の参加者であれば、次回のそのひとの気づきの為に、スルーでいい。
だけど、このひととはいつか、同じ景色が見たい、と思う。
「三色の見落としはだめです。」
思わず口を開く。
「ダメです。」
大事なことなので、2回重ねる。
みんな気づいていないんだ。
麻雀の本当の怖さを。
ここ一番で、手が入るには、牌の力が必要なんだ。
三色をおろそかにすると、
本当に三色が必要なときに、三色が入らなくなる。
それが、いつなのかわからないけれど。
でも、本当にそうなんだよ。
そう思いながら、卓を離れた。
そして、そのひとのその日最後の半荘の最終局。
麻雀は、われわれの気づきのために、その未来のために
ひとつの残酷な奇跡を用意していてくれた。
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2017-06-19 18:37
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