賭けマージャン [麻雀黙示録]

 「最近、フリーばかりだから、麻雀がブレまくっている。」

ますたぴょんが、寂しそうにつぶやく。

そばにいる時間が長かったこともあり、

その言葉を深く、重く受け止める。

勝てばいい麻雀で、刀が錆付いている、といったところだろうか?

ますたぴょんは少々のことでは負けない。

ノーレートであれば、なおのことだ。

お金の影響のないところでこそ、

一切の妥協がない、というますたぴょんの麻雀は大好きだ。

賭ければ、お金で済む。

そのお金の影響のないところの麻雀を打ちたい。

けれど、

賭け麻雀ばかりやっていると、勝つための努力が主となり、

勝てば、その先がなくなることが多い。

一昔前の私なんかは、勝てばいい、の典型だ。

「賭けようが賭けまいが同じ麻雀じゃろうが?」

ひろりん師匠は私にそう仰る。

「同じように打てないなら、常に1000点500円のレートのつもりで打ちなさい。」

ひろりん師匠は重ねてそう仰る。

「どうして同じように打てないのか?」

理由は簡単。

お金が大好きだからだ。

正確にいうと、負けて金を払うことが大嫌いなのだ。

もう、賭け麻雀を止めてずいぶんの時間が流れるけれど

その最大の理由は、

「麻雀を大切にしたい」という祈りのような思い。

大切にできていないクソみたいな自分を知っているから、

だから、

「お金によって、自分の大事にしているものが壊れることが我慢できない」のだ。

そういう考えが浮かぶことが、お金の支配下にあるなによりの証なのだけれど。

賭ければ、あのときのどす黒さが首をもたげ、

麻雀の基本的な部分は変わらないだろうけれど、

ノーレートで打っているよりは、感覚的な麻雀になることは、容易に予想がつく。

大会で、商品が素晴しいかったりすると、そういう感覚が首をもたげる。

このリーチはマンズ以外全て押す、とか、そういう麻雀になる。

私の最近のここ数年の麻雀は、

経験上、打てる牌ではあるけれど、説明はつかない牌、

そういう牌を打たないで我慢をする。

打てる理由が見つからない牌は打たない。

自分は自分の目的とする麻雀と繋がっていたいから、

この自分の麻雀を絶対に変えたくない。

もし、違う牌を打ったのであれば、

私はノーレート麻雀をやめて、あちら側に吸い込まれてしまう。

というか、ここまでの努力が全て意味を失う、

すなわち、どうでもよくなってしまうだろう、と思う。

「全ての打牌に意味を持たせて、麻雀を大切に」

それを望むのは、きっと自分の麻雀がそうではないからだ。

そのために、万が一の牌を切らずに

「全ての打牌に意味を持たせて、麻雀を大切に、同卓者を大切に」

そうすれば、麻雀に大切にされ、同卓者に大切にされると。

そういう麻雀を重ねて、それでも、悪くはない成績を残せるようになった。

それは、純粋に賭けることなく麻雀を覚えようとしている、新しい世代に魅力を感じたからだ。

彼らは、賭かっていないのに、麻雀としっかりと向かい合っている。

そういう麻雀に対する姿勢は尊く美しいとさえ思う。

そして、結果ではなく自身の麻雀をしっかり慮り、深化してくださると、

私は、それを本気で信じている。

迷うことがあり、見えなくなることがあっても、

彼らの麻雀に対する姿勢は、間違いなく本物だと全く疑わないからだ。

彼等に較べれば

私は、ノーレートの麻雀と向かい合っているふりをしているまがい物だ。

私がつかさ会を大切におもう理由のほとんどは、

「彼らの麻雀に対する姿勢」だ。

麻雀は彼らのような「純粋な麻雀への造詣」の意思を持って紡ぐものであり、

賭けたら、どうだ、こうだ、なんて、きっともう論外なのだ、と思う。

私は、結局のところ

賭け麻雀から自分の麻雀を守りたくて、必死に一打の理由を考えている。

ノーレートであることに逃げている。

「押せるから、押せよ。」

そんなささやきが聞こえない日はない。

その都度、

「そんな理由で牌を切って、勝っても意味がない。」

と、自分を諌める。

大会なんかに出ると、脳内は負の思考しかない。

「ならば、大会なんか、でなければよかったじゃないか?」

「でも、にんじんぶらさげられても、いつもと同じ麻雀を打てるかどうか確認したい。」

「これを、切れば勝つことはできるのに。」

「こんなことを考えている地点で、自分には麻雀をどうこういう資格はないな。」

「はやく帰りたい。」

「でも、出る以上は、最善を尽くさねば。」

「最善って?勝つこと?」

たくさんの想念が悪夢のように脳裏をよぎる。

私にしてみれば、ほぼ地獄の苦しみだ。

これは、賭け麻雀を日常とできるだけの力が私になかったから。

ますたぴょんは、大会でも同じ麻雀を打つ。

ひろりん師匠も、いつも同じだ。

私もいずれそうなるのだろうと思っていたけれど、そんな器ではなかった。

それに憧れている私なのに。

私は、賭かった瞬間に、麻雀での我慢がなくなる。

きっと、この我慢をしてきたと思う、10数年が失われる。

賭け麻雀なんて、やらなければよかった、などと、ブザマに

過去の息巻いてた時代を悔やむ日まである。

麻雀の本当を知るものは、きっと、

どんなときでも、心を揺らすことはない。

条件によって、スタイルを変えることはあっても、心は変わらない。

揺れない心。

それは、「麻雀の本当」に一番近いところに有ると思う。

何度も間違って、嫌になって、それでも

もしかしたなら自分も辿り着けるのではないか?と思うこともあるし、

次世代の彼らには、そこに辿り着いて欲しいと思う。

もしかしたなら、「他人を大切に」なんて、戯言なのかも知れない。

けれど、現在はまだ、それを信じていたいのだ。

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