いつも、いつでも、ゼロ発進! [哲学する麻雀]

腕にかけていた杖が新車バイシクルの前輪にぶち刺さる。

前輪がロックされて 死ぬかと思った。

いいんだ。

この苦境から何かを学んでやる。

①日頃からストレッチをする。

②自転車は倒れないように駐輪する。

③雨の日は、自転車は使わない。

ほら、こんなにたくさん勉強できた。

わたしは、運がいい。

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技や技術は、教わるものではない。

自ら、心の底から欲して、貪欲に奪ってゆくものなのだ。

とおもっている。

簡単なはずはない。

というか、簡単なら価値はない。

麻雀は、本来は教えあうのではない。

教われば一瞬ですむものを、推察して回り道をして悩むから

価値が生まれるのだ、と私は思う。

教えあう、という言葉を私は、正しくは

「他人の意見を聞き、自分で考えること」という意味で使ってきた。

なので、自分で考える習慣のない意見交換はこれに該当しない。

「リーチは打たないほうがいいよ」

「じゃあ、打ちません」

ではなく、何故、そうなのか、考えてみる、ここに意見交換の価値がある。

最近は戦術書なども、出回っているようだけれど、

浅田次郎氏の言葉ではないけれど、

本を読んで知識を得ようなんていうのは、横着だ。

麻雀を教わる、という姿勢も教われば身につく、と考えているのであれば

それは、つまるところそれは横着だ、といえてしまうのではないか?

そんな心意気では、きっと何も身につけることはできない。

「何が何でも、吸収してやる」

「全てを貪欲に身に着けてやる」

そういう気概が、私は必要だと思う。

麻雀は、ただ教えてもらうのではない。

言葉遊びのようだけれど、

自分で学ぶひとつの手段として「他人の意見を伺うこと」

その他人という存在が上級者であれば、形式上「教わる」という形になる。

そうして、教わるその道中で、「自分が考えるきっかけ」

を見つけることに価値があるのだ。

知らなかったことを、知ることの喜びの本質は、

知らなかったということに気づき、自分で考えることの喜びに他ならない。

いつも、どうせ、最初はゼロなのだから、とおもえば

未来にはプラスしかない。

そう考えると、生きているだけで儲け物だ。

貪欲に未来に向けて学び続ける姿勢に、辿り着けないゴールはない。

知的好奇心は、マズローの5段階の欲求の頂点、

自己実現の欲求の具現化した知的な欲求だ。

これに貪欲であることは、決してあさましくはない。

より熱く厚い教養を得て、人は人として成長してゆく。

フローラ.jpg

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