狩猟民族と農耕民族 [哲学する麻雀]

人類が狩猟民族だった頃、

狩ってきた獲物は、すぐに食べないとどうせ腐るから

自分がおなか一杯になると、他人に分け与えた。

獲物は、食べ物は、現在の自分の空腹を満たすものであって

未来の自分の空腹を満たすことはできない。

だから、他人と気持ちよく分け合うことができた。

むしろ、分け合うことが当たり前だった。

けれど、農業が生まれ、保存のきく食料が現れた。

明日の空腹を満たす食料の誕生である。

これにより、人は他人に分けることをせず、

明日の自分の為に、貯蓄をするようになる。

そうして、富む者と、貧しい者が生まれる。

誰もが聞いたことのある「とある経済学者」マルクスたんの論旨だ。

私は、狩猟民族であったころの人間が好きた。

めっさかっこいいとおもう。

もちろん、それは、現在のわたしにとっては、

果てしなく困難、というか不可能。

私利私欲の為に溜めこまない。

分け合う。

正しい生物という感じがする。

ライオンは、おなかいっぱいになると、狩りはしない。

おなかが減ったなら、そこではじめて必要な獲物を探す。

そこには、常に、飢えて死ぬ、覚悟がある。

だから、来年はみることが叶わぬ桜を愛で、

明日眺めることの叶わぬ夜空の月を美しいと思うことができる。

そして、となりにいる家族や友人を、

心から愛しいと思うことができるのではないだろうか?

誠実な感じがするのだ。

現在を生きているカンジ。

実生活でそういう選択をできない私は、せめて麻雀だけは、と思う。

点棒ではなく、直面している状況を精一杯生きる。

点棒を理由にするのではなく、点棒を結果としたい。

自分の集めすぎた点棒なら、他家に返したっていい。

点棒は、次の半荘に持っていけないけれど、

良い麻雀を打った思い出は、未来に残すことができる。

二度とない、明日もない、刹那な一打だからこそ、たまらなく愛しいのだ。

こんなことを思うのは、不謹慎かもしれないけれど、

これが最後かも、と心にとめたなら、世界は輝きを取り戻す。

要するに、私は、明日も無事で生きているであろうこと、

明日も、その気になれば麻雀が打てること、に甘んじて

きっと、思い上がっているのだ。

そして、そうであること、に完全に慣れて根腐れしている。

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4ブロックと1雀頭で、組むべきだお!

というハナシを最近は、しっかりと伝えようと思っている。

まず、そこからだ、と。

そんなときの、Nにゃんの手牌。

①①③⑤⑥⑦12367北北に六ワンツモ。

ドラなし、点棒状況もなし。

何を切りますか?

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