自分でもよくわからないテンパイ押しの是非 [哲学する麻雀]

 今回、ちゃんと書けているのか、自信がないです。。

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その日は、嫌なことが重なっていた。

人生には、よりによって嬉しくないことが連続して、重なって起こることがある。

どうして、こういう巡りあわせなのか?

どうして、かくもままならないのだろうか?

そのまま帰宅する気にもなれず、古い城跡のある方向へ歩を進める。

少し肌寒い風が、頬を触り、ふと見上げた空の星空。

「ああ、俺が、こんなに凹んでいるのに、星空は変わらないんだな。」

と痛感して、睥睨する気持ちも手伝って、見上げた夜空。

見つめていると、なんとなく寂寥感あふれる心持ちになる。

変わらず、宇宙はそこにある。

自分の私的な思いなど、全くおかまいなしに、事象はそこに存在していて、

 時間は全く持って無慈悲に、まだ見ぬ世界へ時を刻む。

そうか、事象と自分の想いは、まったく別の世界の出来事なのだ、と痛感した。

私の都合なんて、それは本当に私の都合でしかないのだ。

夜空のお星さまには、カンケーのないハナシなのだ。 

それから、激情に身を包まれそうになった時には、その「当たり前のこと」を思い出す。

自分がどうあれ、世界はそこになる。

神は天にありて、世は全てこともなし、だ。 

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麻雀もそうではないか?

テンパイをしているから、とか、和了したい、とか、そういう私的なものとは

全く関係なく、牌はそこに存在している。

私の頭の中に「ある」から存在しているのではなく、

私の頭の中に「存在していなくても」おそらくそこに「ある」のだ。

私の手牌が、インパッチクラスで、とても和了したいと思っていることと、

私の切り出す牌が和了される可能性とは全く繋がるところが存在しない。

和了される牌は、和了されるし、和了されない牌は和了されない。

存在するのは、和了される牌と和了されない牌だけだ。 

和了されそうな牌などというものは存在しないし、

それが、自分の手牌と関係などあるはずがない。 

自分の手牌の値段が高いから、通りそうな牌が和了されることとなったり、

和了されそうな牌が、急に安全牌に変化するなどということは、あり得ない。 

だから、とおる牌は、いつでもとおるハズだし、

危険な牌は、いつどんなときでも、切ってはいけない。

だって、和了される、と信じるに足る牌を切り出すことは、

論理的に矛盾しすぎている。

だって、和了される、と信じているにたる牌なのだから、それを切ることはおかしい。

他家に和了されてしまうのだから、自分はその未来において、和了出来ないはずだし。 

自分の手が勝負手になったから、危険な牌も切り出す、ということは、

そこに存在する事象を、自分の都合で歪める行為だ。

通ると思った牌を点棒状況で抑えることも、同じ。 

安全だと信じるに足る牌を、自分の保身で切り出さないこともまた、

そこに存在する事象を、自分の都合で歪める行為だ。

気が付くと、私は一か八かの牌を全く切らない麻雀を打つようになっていた。

安全だ、と信じる牌しか切り出さない麻雀。

そういう打ち方にしないと、今度は、

危険だ、と思う牌以外は全て切り出さないと論理的に矛盾してしまう、と考えたからだ。 

けれど、このことが、正しいのかどうかは、わからない。

麻雀も人生も、よくわからない「運を天に任せる」部分というものが存在する。

そういうものがよろしくない、という理屈もまたおかしい。 

精一杯手が育って、無スジの危険牌を切り出したい、そういう状況は多々ある。

けれど、私は、

ここで、「こういう無スジの一番危険だと自分で思う牌」を切り出さなければいけない 

そのことを考える。

和了される、と思っている牌を切らなければいけない、そういう状況。

勝負、といえば、気持ちも高揚して切り出せるだろう。

けれど、少なくとも現在の私にその選択肢を持つことはできない。

また、現在このように考えていることに、意味がアリ

何か解を導きだせるのか、というと、これもまた本当にわからない。

小利口な様相でありながら、非常にばかげている、とも、思わなくはない。

現実の対局の中で 

 常に和了されそうな牌と、和了されそうにない牌の判別が

しっかりできているわけではないから、

どうにもならなくなる局面にも結構遭遇する。

 その時は自分の勉強不足を恥じ、安全な牌をぺたんと切り出す。

押し返す力がなかった、ということ。

自分に押し返す力があろうがなかろうが、他家の和了牌は変わらずそこに

存在しているにも関わらず、だ。 

自分が切り出したかった牌が何であろうと、他家の和了牌はそれとは関係なく

そこに、存在しているにも、関わらず、だ。 

なんだか、情けない麻雀である。 

人事を尽くして天命を待つ。

という言葉がある。

私は、例えば、麻雀に対してもこれで悔いがない、というところまで努力をしていない。

だから、これが、精一杯だ。和了されるならそれもよい!

という、天を仰ぐような麻雀が打てないのだ。

だから、現在のこの私の考えも、未来においては、

全く違うモノに変化している可能性は大いにあるのだ。 

こういうふうに、考えながらも、当るかもしれない牌テンパイを理由にして切り出して、

「その結果に応じた次の戦略を準備すること」、も、また、麻雀なのかな?

との思考も、脳をよぎる。

事象に備える力と、事象に対応する力。

後者を持っていて自信があるのであれば、テンパイ押しも全然問題はない、と思う。

まだまだ、対応力の弱い自分には、「テンパイ押し」(テンパイを理由に押すこと)に

ならない状況を作り出すように努力するより術はない。

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