賭けるということ。 [閑話休題]

学生の頃、20年以上前のこと。某市の競輪祭に伊集院静氏がいらっしゃっていた。

直木賞作家で、夏目雅子さんの旦那さん。

私は、氏の哀愁漂う文調が大好きだった。

奇しくも、お酒を一献、同席させていただくことになった。

私は氏の受賞作「受け月」よりも、「三年坂」という小説が大好きだった。

主人公が、母の生前をたどる物語である。

その風景描写、主人公の心の機微、なんとも哀愁漂う語り。

そんなことを、お話しながら、やがて、麻雀のハナシになる。

当時、私は「近代麻雀」に掲載されていた氏の牌譜を覚えていて、

そのことを訊ねてもみようと思ったのだ。

先リーチに9ソウを切れば、テンパイ。

だが、打たずにチートイに組み直す。

私は、何故9ソウを止めたかの理由を訊ねたかったのだ。

だが、氏の返事は違った。

私の手を握り、悲哀に満ちた目で、私に語りかける。

「ゆうさん。麻雀が好きかい?」

「はい!大好きです!」

のりのりで答える私。

「そうかい。けれど、博打を打つ人間は二流だ。私も二流の人間なんだよ。」

競輪、麻雀、なんでもござれの、伊集院静氏の言葉とは思えなかった。

けれど、その瞳は深く哀しく真実を告げようとしている。

学生でボンボンで、何ひとつ不自由なことのない当時の私には

その言葉の真意は、その時は理解できなかった。

けれど、痛烈に自分の心に残る。

それから、数年がすぎた。
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私見であり、他者を中傷することが目的ではありません。

あくまで、私の個人的な見解です。

これもまた、昔のハナシ。

ひろりん師匠と出会う前、らくえんに出入りしていた頃。

どれくらいのレートなら、平常心で打てる?

ということを、談義していた。

「ピンまでかなあ。それ以上になると、やはり怖くて打てる牌が変化するかも・・・。」

「そうよね、やっぱり、一晩で10以上はきつい。」

「取り返すまで、止めれんくなるもんね。」

こんなハナシをしながらも、私は、

①調子が悪くなると即ラス半

②調子のいい人間がいれば、ぶら下がる

③トップよりチップ

④自分より下の状態の人間を作る

の麻雀を完逐していた。

調子が良い時のレートアップは有りだと、思っていた。

いつも、プラスの分のカードだけをカゴに写して、10枚になると、輪ゴムで止め

見えないように、カゴの下に置く。「調子がよい」と悟られない為だ。

そしてこのプラス分のカードまでは、痛み無く張れる。

そう負けても、どのみち勝ちが無くなるだけで痛みはない。

この痛みのないところまで、プラスを重ねて大きく張ることは、Okだと考えていた。

一度でも、アヤを感じたのならば、もう即撤収。

遊びで打てる半荘などない。

徹底していた。

人数合わせで呼ばれたときも、同様。

たとえば、東一局に18000を振り込んだ人間がいれば

その人間をとばしてでも2着になることが、第一目標になる。

その人間がとんだ時に2着になれるように、

次局は、死ぬ気で1000点でも取る。

三着と二着は大違い。

ラスは、もっての外。

トップは、狙うものではない、そう考えていた。

ラスのリスクを背負って狙うトップはナンセンスだと。

そういう目立たない麻雀が一番大切だと思っていた。

収支をつけていた。

エラーも記録していた。

対局者の癖も全て帰宅後メモしていた。

泥酔している曜日や、給料日あとは狙い目とか、そんなげずなメモ。

けれど、その収支が、自信に変わる。

自分は、間違っていない。

勝てばいい。勝ち方なんてどうでもよい。

勝てばいいのだ。

麻雀は、狡猾さを競うゲームだ。

綺麗事ばかりいっている人間は、払って帰ればいい。

そう思っていた。

へらへら笑ってろ。

俺は一人でいいよ。一人で麻雀で闘うんだ。

自分より弱い人間を見つけて打てば、いい。

こんなに簡単なハナシはないだろう。

そのための努力は惜しまなかった。

とにかく、対局者の癖や性格をメモする。

弱点を探し叩く為だ。

相手が勝負手らしい牌の切り方になれば、全力で捌く。

相手が悔しそうな素振りを見せれば、それで大体大局は決する。

それが、うまくいかなかった時は、すぐにラス半。

このころは、麻雀が楽しいなどど感じたことはない。

麻雀のことは、好きだったはずなのに。

もうそんな気持ちも思い出せなくなっていた。

麻雀の戦術書は、読み飛ばしバカにしていた。

実戦に手役など不要だ。

そう信じていた。

三色、イッツー?和了できない形に用はない。

あの夜、ひろりん師匠に出会わなければ、今でもそういう麻雀を打っていただろう。

牌のことなど見ていない。

麻雀牌は単なる道具に過ぎない。

博打は地獄だ。

等価交換とならない世界。

理不尽な世界。理不尽故に妙な心地よさもある。

地獄にずっといると、地獄の業火に焼かれていることにすら気づかない。

勝てば、まだ勝ちたい。

負ければ、負けを取り返したい。

そんな無限地獄。

地獄で見える景色は地獄ばかりである。

やがて、私はひろりん師匠に、様々なことを教えていただくことになる。

そうして、ある日、訊ねた。

「先生はどのレートまでいけますか?」

そんな阿呆なことを、訊ねたのだ。

その師匠の答えを拝聴して、

私は、「二度と金輪際賭けないこと」を心に決めた。

要約すると以下のとおりだ。

賭ける、ということは、全てを賭ける、ということ。

家も家族も未来も、何もかもを賭けるということ。

負ければ全てを失う、ということ。

そうして、ひろりん師匠は最後に抑揚なく

「わしが、麻雀をやめたのは、子供ができたからじゃ。」

とくくった。

それは、そうだ、賭けられるはずはない。

伊集院静氏の言葉が時を超え、頭の中に響く。

「博打を打つ人間は二流」

圧倒的な説得力を持って、全てが氷解した。

帰宅して、自分の過去の麻雀を振り返り、涙がポロポロでた。

そう博打を打つということは、「大切なものを賭ける」ということなのだ。

麻雀が好きだったことを、痛感した。

麻雀が好きだったことを思い出した。

麻雀が楽しかったことを思い出した。

大切なものだということを、改めて認識した。

私が賭けていたのは、ほかならぬ麻雀への想いである。

その大切なものを、チップにしていた。

自分をごまかし、賭け続けていた。

ごめんなさい。

嘘をついていました。

こんな麻雀は本当は打ちたくないんです。

傷つきかさぶただらけの心は、もう痛みすら感じないけれど、麻雀が好きなのだ、ということは本当だ。

好きなんだよ?なのに・・・

大切な麻雀を賭けることなんてできない。

できるはずがないじゃないか。

ひろりん師匠の選択も、そういうことなのではないだろうか?

賭博が違法である理由はここにあると、思う。

大切なものを大切にできなくなる、その感覚の麻痺。

その結果、起こりうるであろう負の連鎖。

私にとって麻雀は大切。

起こりうるすべてを大切にしたい。

理想も、妄想も現実もすべて、あらゆる概念は私の心の中ある。

他人が、どのような麻雀を打とうと、どのような短慮な牌を打とうと、失礼な麻雀を打とうと

そのあらゆる事象を大切にできる人間になりたい。

たとえば、自分が根拠がなく打てず止めている牌を、ブンブン丸な人が切るとする。

それを、

「こんな牌を切る人とは麻雀は打てない。」

とか

「なんて牌を切りやがる!」

などど、感じるくらいならば、ラス半コールをするべき。

「他人のせいにする麻雀」しか打てない環境ならば、牌を握るべきではない。

力が足りないのだ。

麻雀を大きく包み込み、大切にする力。

同卓した以上、相手に敬意を評して精一杯組むこと。

それが、できないのなら、最初から卓入りしてはいけないと思う。

牌にも、対局者にも、自分の過去の対局者にも失礼だと感じるのだ。

卓入りした以上、精一杯、挑む。

無駄な対局などない。

つまらない、と感じたのならば、それは対局者のレベル云々ではなく、自分がつまらない麻雀を

打っているだけなのだ、と私は思う。

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とあるオーラスツモ4

一一六七八④⑤⑦⑧46888

4巡目、ドラは場に切れている発

和了すればトップ。

③⑥⑨でリーチ充分だろう。

けれど、ここから一ワンを切る。

タンピン三色が見える。

というか、13枚役のタンヤオが見える。

それにピンフや三色が複合される。

なぜ、ダイレクトに⑨あたりを引かなかったのか、その理由を考える。

ツモ③ 打一ワン

六七八③④⑤⑦⑧46888

ツモ⑥

六七八③④⑤⑥⑦⑧6888

リーチ。

まっすぐ打っている。

意味を持たせて、大切に。

未来へ。

この局は、親番に2900を引かれ、オーラス一本場。

また、ふたたび、あの役とめぐり合う。



つかさ会土曜日、5日午後1時からに変更になります。


:クローバーについて

クローバーは、金曜日。

↓その様子は、下記アドレスより、

 http://s.ameblo.jp/428km/

 クラスのみんなには・・ないしょだけど、つまてつさんと、ほむらちゃんには教えてあげるね!

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ぴち

ちょっとした短編小説を読んだ気分になり、
ホロリとしちゃいました。

奇しくも本日うちの旦那が伊集院静の小説を携え、
仙台へ対局へ向かいました。
昨日、話したりしたのかな?
by ぴち (2013-10-05 17:09) 

ゆうゆう

コメントありがとうございます。
伊集院さんは、当時最愛の奥さんを亡くされた直後で、酒と博打に身を落としていた時期だったとのこと。「博打は二流、それよりも人を愛する人生を送りなさい」と教えてくださいました。
ぴちさんのご主人とは、「どうすれば、ジェロニモのように、人間が超人になれるのか」を主軸においた「超人会議」を粛々と執り行いました。
そのあと、博打は全てを賭けてこそ博打。
負ければ全てを失う覚悟があってこそ博打だと。
ピンだろうと、なんだろうと、結局麻雀は博打ではない、というようなお話をしたような気がします。
それで、帰宅後、いろいろ思い返して記事にしちゃいました。
ちなみに、ダニエル・J・ダービー(テレンスのお兄たま)とは、絶対に賭け事をしないこと。賭けの勝負で負けると魂をコインに封じ込められちゃうので注意してください。それはそれは、恐ろしいスタンド使いです。バーでうっかりであったなら、トンズラしてくださいスタンドはスタンドでしか倒せません。まずは、ご自分のスタンドの特性を理解することです。
ええ、よいお話が台無しですね。台無し超人です。
あとモノクマのお仕置きは、ドクロベエのお仕置きよりもえぐいので、こちらも注意してくださいね。
 あと、このコメントをご覧になられて、「ふざけたレスよこしやがって!もう2度とコメントなんかしないんだからね!」と感じられたのならば、そこを乗り越え、またコメントをお願いいたします。
by ゆうゆう (2013-10-06 02:57) 

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