憩いの雀荘 [麻雀小説]

昔話である。20年ほど昔のこと。

私が、麻雀を覚えて間もない18歳の頃、仲間達とよく出入りしていた雀荘があった。

本来であれば、大学生になっていたはずのその春。

我々はなにやらアテがはずれ、気がつくと望んでもいないのに、残念ながら哀愁漂う「浪人生」となっていた。

まだ、何もかもバブルな、80年代後半 そんな時代だ。

 その雀荘は、そんな肩身のせまい我々を、セット一時間1000円(1人250円)で打たせてくれていた。

しかも、学生サービスという名目で、ドリンクまでサービスしてくれていた。

(正価250円、当時はフリードリンクなんて有り得ない。)コーラか、オレンジジュース。

店のオリジナルドリンクで、オロヤク(オロナミンCとヤクルトのミックス)なんていうのもあった。

 当時、ゲームセンターの脱衣対局麻雀ゲームが、1ゲーム50円。

それがものの数分でなくなってしまうことを考えれば、わずか250円である。

わずか250円で、一時間もリアルな牌に触れるなんて、望外な幸福だった。

4人全員の所持金の合計が3000円にも満たない我々は、いつも長く打てて2時間くらい。

けれども、当時は何物にもかえがたい楽しい時間だった。

お昼ごはんを30円(100円で3つ)のコロッケ一つで済ませている仲間もいた。

どんなに空腹でも、それでも麻雀を打ちたかった。

 麻雀が打ちたくて仕方のない私は、本来ならば麻雀とは無縁の人生を歩むであろう友人もむりやり雀荘に

ひっぱりこんでいた。

はっきりいって迷惑な人間だったとおもう。
 店の入り口に、「スポーツ麻雀」の看板が踊るその店は、入り口から左右2列並ぶ10卓がフリー麻雀。

「ブー麻雀専門店」だ。奥の6卓がセット用の貸卓となっていた。

入店した際、いつも我々は、フリー卓の中央の通路を小さい声で挨拶しながら、小走りに奥の貸卓エリアへ

駆け抜けていた。

奇妙な博打打ちの熱気が漂うフリー卓のエリア。

.我々の存在はあまりにも不釣合いだと感じていたからだ。

  その雀荘の店員も経営者も「浪人生」である我々には、限りなく優しかった。

特に住み込み店員の「Sさん」には、ことの他かわいがられていた気がする。

ピンフの作り方や、チートイツの作り方などは、「Sさん」に教えてもらった。

だが、その「Sさん」も、私のフリー卓への同卓だけは決して許してはくれなかった。

日々、私のフリー麻雀への想いは強くなっていく。

ある日、3万円を握りしめ、「このお金はなくなってもいいから、たのむから打たせてくれ」、と嘆願したこともあ

ったが、やはり、答えはNO.絶対に許してくれなかった。

今、思えば、「若者を博打に引き込んではいけない」という、強い想いがあったのだろう。

麻雀の麻は麻薬の麻。麻雀には麻薬並みの中毒性がある。今でこそ、本当にその意味がわかる。

あの若さでブー麻を覚えていたらとんでもないことになっていただろう。

 そんなある日、仲間より少し早くその店に着いた私は、店の奥、貸卓エリアの椅子に一人、隠れるように座

り、植木の間からフリーの対局を、ドキドキしながら覗き見ていた。

「マルA!」だの「6枚!」だの、意味のわからない言葉が飛び交う。

卓上に出ている点棒の色から察するに、おそらく私の知っている麻雀とは異質なルールであろうことは察し

がつく。

支払いは現金のやりとりではなく、カードのやりとり。

そして、1回のゲームの終了速度が異常に早い。けれど、みんな、生き生きとしている。

見ているこちらもわくわくする。そんな折、突然くぐもった声が、響いた。

「おい。ちょっと、トイレ。誰かおらんか?」

 ブー麻雀を打ちなれていそうな、おっさんが、立ち上がりおもむろに声をあげる。

この店では珍しいことだが、このとき、店員の立ち番がいなかった。

本走で対局中の他の店員は、入り口近くの卓に入っており、この「おっさん」の声は届かなかったようだ。

「Sさん」の姿も見当たらない。

「おい。にいちゃん、ちょっと トイレの間、たのむわ。」

 私に向けて発せられた言葉。まさに僥倖。私は、大きく頷くと、大慌てで卓についた。

対局者は、「スナックのママ風なご夫人」と、「競輪場にいそうなおっさん」と「、パチンコ店にいそうなじいさん」。

「こりゃちょろいわ。大物手炸裂させてやる」私は、勝利を確信していた。

麻雀を覚えて2ヶ月弱、ゲームセンターの2人対局麻雀では、何度も役満をあがったことがあるし、本屋で麻

雀の本を読み、役もしっかり覚えた。

十三不塔なんていうのまで、知ってる。符計算だって5200.7700なら大丈夫だ。

仲間内での対戦成績だってすこぶる良い。自信は猛烈にあった。

 配牌をとると、赤、赤、赤、でまっかっか。シャア専用の手牌だ。

速攻で(通常の3倍の速さで)ハネマンをテンパッた。

どんな形だったかまでは、20年たった今ではもう覚えてはいない。

ただ、赤くて、高くて、宝石のようにキラキラしていて。

牌の両端を握りしめて、ロン牌が出てくるのをドキドキして、キョロキョロしながら待っていた。

トイレから戻ってきた時の、「私に代走を頼んだおっさん」の笑顔が浮かぶ。

「そうだ、このハネマンをあがって後から来る仲間に自慢しまくってやろう。」そう思った刹那。

声がする。

「おい、あんた、それ、あがったら駄目やないね!」(あがってはいけないよ)
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聞き慣れた「Sさん」の声。

「代走を私に頼んだおっさん」がトイレから戻ってきた。

なんだか、ものものしい空気になってきた。私は、こわくなってきた。

とんでもないことをしてしまったのだろうか?

「Sさん」は私に、

「いいから、あっちにいっときなさい」(あっちへいってなさい)

そういって、私を貸し卓エリアに追いやった。

遠目に、ひたすら客に謝っている「Sさん」の姿が見える。

私は、何がなんだかわからなかった。ただ、場は、穏やかに収まったようだった。

暫くして、私の仲間がやってきた。私はなんとも惨めな気持ちで、仲間といつものように麻雀を打つ。

いつものように、半荘2、3回だろうか。本当に放心状態。理由がわからなかった。

 仲間との対局を終え、二時間のゲーム代500円を払うべく、店のカウンターへ向かうと、「Sさん」が店の看

板を片付けていた。私が口を開くより早く、

 「あんたには、まだ、ブーは早いよ。」

とやさしく微笑んだ。

 8000点持ちのブー麻雀では、人をとばしての、終局(3人浮きでの終局)は、チョンボとなる。

チンマイ。おそらく、私の赤いハネマンは、出アガリチョンボだったのだろう。

  私は、それ以来、10年、ブー麻雀を打つことはなかった。

我々はその雀荘へ、大学へ合格した後も、社会人になった後も、通いつめることになる。

セットで打つときは、いつもその雀荘だった。

他のフリー雀荘で「リーチ麻雀」を打つことがあっても、セットで打つときだけは、たいていその店だった。

いつしかその店は、本当の意味で、我々の憩いの場となっていたのだと思う。
 そ
の店も、今はもう、ない。

 目を閉じると浮かぶ、原風景。はからずも思い出す。

今では、もう遥か遠く離れ、もう卓を囲むことも叶わなくなった、大切な仲間の声が、私の心に響く。

深く深く染み込んでゆく。

 もう一度、一緒に打ちたいと想う相手がいること。

もう一度、一緒に打ちたいと想ってくれる相手がいること。

これに勝る幸福はない。

いままでも、いまも、そしてこれからも。

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