配牌をもらって、景色がよくない、とツイていない。


振込むとツイてない。


あたり牌を掴むと、ツイてない。


裏ドラ乗らないと、ツイてない。


配牌がよい、とすごい!


裏ドラが乗るとすごい!


この席はトップばかり、ツイている。


この席は、さっきラスだった。嫌な予感がする。



ちょっと、待って?


あなた、何を言っているの?


ここで、言っていることは全て偶然の出来事。


打ち手の資質や、努力とは何の関係もないこと。


配牌が良くなる努力ってあるの?


ツイている席に座るためにできる努力ってあるの?


裏ドラを乗せるために、何ができるの?


まあ、裏ドラについては


一二三④⑤⑥⑦⑦⑧⑨4588


ここからのリーチで裏ドラが一枚でも多く乗るように


⑦を切る、といか、場の状況をみる、とかいう


努力はあるかもしれないけれど。


基本、麻雀は、どのような苦難に満ちた状況であっても


その状況下で「どのような理由で、どのような選択をしたか?」を競うゲームだ。


「運の良さを競うゲーム」ではない。


そもそも、そこの感覚がずれていると


麻雀の本当の魅力には、なかなか気づけない。


ツイている、ということは、


ツイている、と感じていることは


実はとても不幸なこと。


麻雀を正しく見つめる機会を失い、


合わせて努力をする機会を失う。


師匠がよく、口にしてた。


麻雀の配牌は遠ければ遠いほどよい。


苦しければ、苦しいほどよい。


努力と成長のチャンスは楽なところにはない。



先日、某ノーレート雀荘対抗戦で


本当に久しぶりに「麻雀に溶け込む」という感覚になった。


ツイているとか、ツイていないとか、


そういう感覚が介入する隙間のない世界。


ただひたすら、起こる事象に誠実に対応していく粛々とした時間。


捨て牌と手牌が一枚の絵のように感じる不思議な感覚。


果てしなく心地よい没入感。


「打てている」という確かな感覚。


そういう麻雀が、「私の残りの人生で、後何回打てるのか」は、


わからないけれど、ただ与えられた状況で、最善を尽くすこと以外に


麻雀における充足感にたどり着く方法など、ない、のではないか?。


ツイた、ツカない、の代わりに、


打てている、打てていない、という言葉を使いたい。


今日は、ちゃんと打てた、と思う感覚が大事。


ちゃんと打てた、一局一局を矛盾なく重ねてゆくこと以外に


麻雀を全うする道はないのだ、と思う。





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