いちか、ばちか、の牌を切る。
麻雀はね、「黒ひげ危機一発!」ではない。
「なぜ?切れる?」
「なぜ?なぜ、その牌が切れるの?」
我慢している自分が「えらい」なんて思わないけれど、
自分が、場の状況を精査して必死で抑えている牌を、
ポンポン切られると正直あほらしくて、シラケてしまう。
自分はどんなこきでも、説明のつかない牌を切らないように、必死で打っている。
相手の仕掛けや、思惟を自分なりに評価して、大切に打っている。
そのことが、同卓している相手に伝わらないのは、自分の力が足りないからだ。
ステージの違いではなく、自分の「麻雀への熱量が不足」しているからだ。
曽根さんが、残してくださった言葉がよみがえる。
「中司さんは、打牌をちゃんと見てくれているから、だから、嬉しい。」
相手の打牌から、13枚を精査する。
どういう牌がどういう風に組まれているか?
その精査が届かないのであれば、その牌は切らない。
自分は、相手の麻雀を信じているから、必死で考える。
おろそかにしたくないからだ。
ちなみに、他人の麻雀もだけれど、自分の麻雀もしっかり振り返っている。
何度も、何度も、これでよかったのかな、って。
自分の都合だけで、打ち切る麻雀は、寂寥感しかない。
相手の思考を読まないで、自分の効率のみを戦わせることは、麻雀、ではない。
それが、楽しいのは、そういうルールの麻雀、で戦っているからに過ぎない。
麻雀は、対人頭脳ゲームなのだから。
絵合わせ運ゲーパズル、ではない。
ポーカーや、他のゲームと同じように、イニシアティブを取り、
相手に不利な状況を作るため、頭脳戦を繰り広げる。
現在、黒ひげ危機一発!麻雀、となっているのは、
粗末に扱われている「価値のない自分の麻雀」にある。
35年、毎日毎日、麻雀のことを考えてきて、
勝つための最前手が、作業になり、工夫をすれば、徒手空拳。
生まれた時代が悪かった、というより、未練たらたらで、往生際が悪い。
手牌を慈しんだり、同卓者のことをリスペクトしたり、
なんていうのは、近代麻雀に符合していない。
昭和の甘ったれた思考なのだ。チョーマイノリティだ。
世に拗ねるのではなく、むしろ、潔く淘汰されたい。
だが、しかし、その覚悟を持って、最後まで自分は、自分の望む麻雀を打つ。
たくさんの過去の自分との同卓者のことを思えば、絵合わせ麻雀など、打てるものか。
浮かばれないにも、ほどがある。
リーチに甘えない。(それでも、打てるリーチ)
峻烈な仕掛けしかしない。(仕掛けざるを得ない仕掛け)
場に符合した和了をめざす。(他人の打牌を慮った結果の和了)
あわよくば、牌と人との一体感。
残りの数少ない対局は、軽い麻雀を全て淘汰するくらいの、
自分と過去の打牌の昇華を目指す。
よい麻雀というのは、勝ち負けに拘らずに、結果が出る。
結果がだせない、というのであれば、所詮、自分の人生における麻雀もその程度だった、
ということなのだろう。
ピンフ、ドラ1はリーチ。
そんなことは、わかってるよ。
だけど、答えはひとつじゃないでしょう?
和了よりも大切なことをちゃんと考えて、そのうえで、打つリーチでありたい。
期待値を重ねて、エラーをしないようにセオリーを大切に勝つことよりも、
場に符合した和了を重ねて、結果を出したい。
これは、価値観の違い。
エラーをしないように、打つことの大切さもわかっている。
でも、だが、しかし。
自分が、麻雀に惹かれたのは、「心酔できる奇跡」だから。
残りの人生で、少しでもそれを感じて、その結果を慈しみたい。