80年代後半。
思えば、夢のような季節だった。
もはや、セピア色な思い出ではあるけれど、
当時はまっすぐ歩けないくらいのダメージだった。
30年以上も昔のはなしだ。
最大の大負けの記憶。
ちょっと、長くなりますけれど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
地元、北九州はなかなかに危険な街。
競輪、競馬、競艇、麻雀、裏カジノなど、ヒジョーに盛ん。
当時、予備校生のわたくしのこづかいは、毎日の食費800円。
これでは、麻雀も打てないし、ゲームセンターに行ったとて、数時間も持たない。
麻雀が打ちたくて仕方がないわたくしは、当面の場代を稼ぐために思案する。
フリー雀荘にいって稼いでみたい、という気持ちはあったけれど、
点数計算がおぼつかないし、正直自信がなかった。
麻雀は、自分は強い、と勘違いできていたのだが、
なんといっても、フリーのマナーやルールを知らなかった。
3900のえらいやつが、5200。
2900のえらいやつが、3900。
他家の持ち点は教えてもらえないので、暗記してなくちゃいけない。
北九州のフリーは超完全先付けなので、注意が必要。
22334455m678s発発
例えば、こういうテンパイはリーチを打たずに和了するとチョンボになる。
234の一盃口
345の一盃口
発
どれの和了となるにしても、「和了の形が確定しない」からチョンボになる。
「和了したときに役が確定していればよい」ではなく
「役が確定してなければならない。:ということが、難しい。
同巡ツモもチョンボ。
例えば上家が切った4pを同巡にツモっても和了はできない。
あと、おまわりさんに逮捕されるときに、有り金をボッシューされる。
フリーにいってみたいけれど、そのハードルはあまりにも高い。
結局、自分は仲間うちでの麻雀を打つしかなかった。
麻雀を打ってないと、気持ちが落ち着かない。
そういう自分が、おこづかいを獲得するためには、パチンコしかなかった。
パチンコ店は、朝からの稼働をあげるため、モーニングサービスを実施していた。
パチスロは1シマに2台くらい、ビックボーナスのフラグの立っている台があった。
10時開店の海沿いパチンコ屋に9時50分に並び、
7枚交換のモーニングを取り、それを流すと、5000円くらいのプラスになった。
翌日のモーニングの為の1000円を残して、5000円。
毎日、この5000円で一日を過ごす。
まとまったお金が必要な時には、「駅前の6枚交換のパチンコ店」へ並んだ。
連チャン機である「ニューペガサス」が設置されており、
うまくいけば、モーニングから2万くらい勝つこともできた。
ただ、「駅前の6枚交換のパチンコ店」は、チンピラ率が高かった。
並びの地点で、因縁をつけられる可能性がめちゃ高い。
「おまえ、誰に断って並んどんじゃ?ああん?このクソガキが!」
と、挨拶をされる。
まとまった出玉を出そうものなら、ずっとにらまれる。
「おまえ、景気がええのう?そのコイン、どうするつもりや?」
などの質問も受ける。
なので、駅前のパチンコ店のモーニングには、
「喧嘩の強いコワイ友達」がいっしょいる時にしか、並べなかった。
チンピラにしてみれば、18、19のガキの「こづかい稼ぎ」のために
自分たちのシマを荒されたのでは、たまったものではない、といったところだったのだろう。
とにかく、予備校生の自分にとっては、1日のおこづかいが5000円。
これで、カラオケに行ったり、飲みに行ったり、麻雀を打ったりしなくちゃならない。
麻雀に使える金額は、1日2000円くらい。
当時雀荘の場代は、1時間250円だった。
とにかく、麻雀に狂っていたので、モーニングを取ったなら、雀荘へ直行。
毎日、毎日、予備校に行かずに、麻雀を打っていた。
自分たちが、通っていた雀荘は、ブー麻雀が併設されていた。
店の前には、「スポーツ麻雀」の看板がきらびやかに回る。
活気のあるフリー麻雀。
「マルエー
12卓左右に並ぶ、ブー麻雀のエリアを抜けて、奥でセットで打つ。
自分たちは、まだフリーで打てるレベルではないけれど、
いつか、かっこよくフリーで牌を握ってみたい。
なんといっても、「麻雀で稼ぐ」ということが、かっこよかった。
自分が、フリーデビューしたのは、大学に入ってから。
麻雀を覚えて3年くらいたってから、である。