じじいの気持ち。


お迎えが来るまで、ゆっくりと「牌と、雀荘の喧噪の中」で過ごしたい。


牌との邂逅に、既視感を覚えながら、「麻雀」を楽しみたい。


だから、


「発声をしてくれ。」とか、


「6枚切りでお願いします。」とか、


わしゃ、そんな窮屈なのは、嫌なんじゃ。


けれど、わしのともだち・・・


窮屈ではない気心知れた、雀友はすでにみな、いなくなっている。


あっちの世界に行ってしまった。


ここでしか牌を触れない、「麻雀が好きだから」お迎えが来るまでの暇つぶし。


贅沢な暇つぶし。勝ち負けなど、そういったものに、魅力は感じない。



若者は、真剣に麻雀を学びたいと思う。


ルールを守り、俊敏な思考で、1打1打に合理的な価値を重ねる。


発声しないやつ、信じられない。


符の計算できないのに、雀荘に来るんじゃねえよ!


じじい、切るの遅いんだよ!



こういう、じじいと、若者が同卓することは、不幸だ。


なぜなら、目的が違うから。


若者


高いステージを目指して、精緻な打牌を求めることも、「麻雀」。


じじい


その人生の友人として、「ゆりかご」のような安息を与えてくれるものも、また「麻雀」。


麻雀は棲み分けが大切だ。


どちらのニーズも大切に。


それができないなら、同卓しないことだ。


相手の麻雀を許容できないのであれば、同卓するな。


同卓したなら、相手の麻雀をちゃんと大事に、自分の麻雀を打つことだ。


これは、じつは、とてつもなく難しい。


ノーレートであれば、なおのことだ。



自分は、じじいになっても、精緻な打牌を目指したい。


ただ、麻雀を打っているという「温かさ」、も常に大切にしたい。


常に現役でいるためには、(これは麻雀だけのはなしではないけれど)


①弛緩しない。(舐めない)


②これが最後だ、とおもって打つ。


③緊張感を忘れない(しらけない)



この3つをおろそかにせず、素直に、誠実に謙虚に、重ねることだ。


最近、「感覚」で打つことが多い。


間に合っているか、どうか、その感覚がまずあって、


これまでは、「間に合わそう」としていたけれど、


最近は、「間に合わないから」


「安くあがってもらおう」「差し込もう」「形式テンパイを狙おう」


と、別の選択肢が生まれることが多い。


感覚に頼って打つ、というよりは、感覚で打つ、というイメージ。


あとで、打牌を精査しても、それほどおかしくない、から、


経験則による進化なのかな、とか、軽く考えている。