事象そのものへ。
私が、昔から傾倒している慶應大出身の哲学者、池田晶子。彼女の書籍を読み重ねているうちに、麻雀に対しても哲学が生まれる。
物事そのものを考える。頭がひっくり返るくらい考える。考えるのだけど、それは全て自分の頭のなかの出来事。頭のなかで考えていることは「確かに存在する」。形而上に、という表現になるが確かに存在する。
ただ、その「考えて理解すること」の他に人は、事象そのものを「感じる力」を持っている。有名な哲学者カントの言葉を借りるのであれば、前者は「悟性」。後者は、そう「感性」というやつだと思う。
自分は、自分には、言葉では説明できない「感覚」というものがある。きっと誰にでもある。これを、理屈で押さえつけてしまうと禁忌をおかしたような気持ちになる。この「感覚」を「感性」と呼ぶなら、この「感性」を大切にするために、自分は「麻雀の理屈」を勉強している。「理屈を越えた感性」を慈しむため。

「感性を蔑ろにしない麻雀」を打ちたい。
 私見だけれど、麻雀は損得を学ぶだけで、満足のいく結果がでるようなつまらないものではない、と思う。
 「ここは、勝負局だ。」「ここは、危ない」「牌がいくなと行っている。」漫画みたいだ、との批判が在ろうと、問答無用な感覚が体を支配する。

7899m78p122sチー978mドラのないこの形。上家親番の9mをチーする。ピンズの上も安く親の現物9mを2
枚抱える仕掛け。場に安全な牌をたくさん抱えての純チャン三色の予定だ。ここに、下家から2sが飛び出る。手牌は99m78p122s「これを仕掛けないとダメだ。」「これを仕掛けたなら、今日の麻雀はうまくいく。」その感覚に包まれる。考えるよりも、体が先に動く。2sポン。これは、従わないと後悔する感覚だ。守備力はある。99m78p手牌4枚全て安全だ。3900を1000にする仕掛けだが、3sを引いて純チャンになるまえに、2sが打たれたことをどう感じたか?これに、この感覚に、従うことができないのであれば、それは自分の麻雀ではない。ちゃんと「卓に乗れている」感覚。
大切なことは、「景色のなかに」「風景のなかに」ある。風景に溶け込む感覚。「形而下の確認できる事象」と「形而上の蒙昧な概念」がきれいに重なる瞬間。
圧倒的な「事象そのもの」は、損得勘定で「感性」を枯らさないように、語りかけている気がしてならないのだ。