ツキに甘えない。ツキとやるべきことは関係ない。牌の効率とか、場の状況の判断はミクロなこと。それよりも、大局観を持とう。
「何を求めて、何をするか」
いつも、答えはそこにある。 
「どう感じているか?」
「感性に水をあげよう」 
やるべき仕事を努めて、振りかえったときに、どう感じることができるか、が全てだ。

もう巣立って20年近くなるのに、まだ師匠の麻雀を想っている。きっと想い続ける。
わたしの師匠は、とにかくツキのないひとだった。いつも捨て牌みたいな配牌を、丁寧に丁寧に仕上げてゆく。リーチも仕掛けもなく、切なくも重たい一打を重ねてゆく。師匠は「ついていない」という言葉は絶対に使わない。「遠い」という表現をしていた。「遠いから工夫をする」「遠いから、同卓者の力を借りる」
「遠くて届かないから、よく観察をする」その麻雀への準備はそのまま「麻雀の力」になる。
 遠く困難だからこそ、たどり着いたときには、その喜びはひとしお。歩んだ者にしか知ることができない
感動がある。
「辛くてうまく行かなくて、悔しくて、それでも諦めなかったものにしかたどり着けない景色がある。」
 簡単な命題しかもらえないと、人は成長できない。
そして、その簡単な命題だけをこなして「うまくいっている自分」を本当の自分と勘違いする。そうすると、必ず成長は止まる。難しい命題の時こそ、魂を燃やして挑む。そうすれば、麻雀は必ず答えてくれる。
「あなたなら、乗り越えることができる」と、問いかけてくる麻雀の苦境を楽しむ力。「楽なことには価値はない。」それはそのまま人生を楽しむことにつながる。
オーラス。ラス目。30000点以上がプラス加点のルール。ドラ8s5200ツモで30000点以上になる。
21ポイントのプラス加点だ。そこにこの牌姿。師匠なら、丁寧に牌を重ねて面前で七対子とチャンタを目指すだろう。遠くて届かなければ、できる努力を重ねて親番の連チャンを受け止めて次局を望むと思う。
自分は、その力は現在はない。けれど、遠い目的に向かって「加速する構想」は持っている。師匠からは、「クラッシャー」と呼ばれていた「仕掛け」遠いからこそ持てる構想だ。破壊して組み立てる。
いつも、想う。「先生、私の麻雀はヒドイでしょうか?間違ってますか?汚いですか?でも、自分には、未だ、これを仕掛けずにたどり着ける未来が見えないのです。」
よし、いこう。自分の感覚にオール・インだ。
これはチャンスだ。自分にとっては、チャンスだ。役牌を重ねて、ドラ周りを引っ張ってくれば、充分な形だ。トイトイも見える。ドラもある役牌の種もある。
1巡目、1sを仕掛ける。このあとのドラ周りと役牌の引きが全てだ。予想に反して、ドラ周りの9sが3枚とび、役牌も中以外全て枯れた。絶望の音がする。
仕掛けを入れている親番の現物の2pを守備の要に、こちらも仕掛けてゆく。振り込むことは絶対にできない。22p8s中中 チー123mチー789pポン111s
2pを外す。このテンパイではダメだ。足りない。足りなさすぎる。ドラの8sは打てないし。中が場に打たれる。仕掛けてドラ単騎だと、リスクしかない。我慢。望外な中を引いてきた。「こんなことってあるのか?奇跡だろ、このテンパイ。」 
8s中中中のテンパイ。危なくなれば、中を切ることができる。もう充分です、ありがとうございます。
そう思っていたら、まるで当たり前のように8s をツモってきた。
ラス→浮きの三着。今年一番の衝撃だった。