老いを感じる。 
恐ろしいスピードで時が流れる。

老いとはすなわち、覚悟なき「損得勘定のおばけ」のようなものだ。
重ねてきた歴史が、器用に損と得を嗅きわけて、目先の利益を追いかける。
大きな満足を目指すより、大きな後悔をしないことを目指すようになる。

その南3局は、牌姿にも恵まれた親番だった。決定打を目指して、細かい親番でのアガリを重ねてゆく。
45677m567p33567s
ドラの白が絡まない手役だが、6000オールがみえる。
3sも7mも、スルー。ツモったなら、その暗刻を生かして多面待ちに組み換えて、高打点を目指す。
そのつもりだった。それ以外の選択肢はないと。
だが、対面他、ドラを、ぶったぎり戦車で前に出てくるくらいの勢い。「もしかして、この2000点アガったほうがよい?」マンズがめちゃめちゃ安い場。「3m6mを先に引いてくれ!3sと7mはうたないでくれ!打たれると、たぶん、アガってしまう。目先の点棒が欲しいし、親番での次局のチャンスも欲しい。」でも、この手牌の未来もめちゃめちゃ気になる。
3sが打たれる。昔なら、間違いなく和了していない。
映画でいうなら、クライマックス直前で、停電になったようなもの。「下家に安くあがらされた感が強い。」なんだか、とんでもなく、セコイことをやってしまった後悔のなか、親番は流れて、オーラス、下家さんにアンコースーをつもられる。奇しくも、前前局切望していた、マンズの六が、卓上に舞う。
このアンコースーは、自分の小ささへの警告だな、と思った。2000点を拾う卑しさへの罰。
もちろん、自分の麻雀観に合致しているなら、それでいい。でも自分は、隠然とした麻雀を打ちたいのだ。
矛盾している。
昔の仲間は、何というだろうか?気がつくと、そのことを忘れて、ただ麻雀を打っていた。あのひとならどうするだろうか?今までならどうするだろうか?そういうことの精査を自分は、大切にしてきたはずである。
麻雀が点でなく線であり、連綿と繋がってゆくものであれば、自分の麻雀は、現在は、自身の過去と繋がってはいなくて、損をしたくないばかりの重なりの風景。あまりにも計り知れるものになっている、と思う。