2分の1の勇気 [九州麻雀ほうろうき]
「麻雀を打っているときは、本当に楽しくて
嫌なこと全てから、解放される。」
その言葉に激しく頷く。
麻雀は楽しすぎる。
だから、時々その楽しさに浮かれてしまって
また、忘れてしまう。
いちかばちか、は勇気ではない、ということを。
いつかの対局。
牌姿もよく覚えてはいない。
最近は、もう、「覚えていること」が蒙昧だ。
世界のとらえ方が、「形」から「イメージ」にかわってゆく。
なんというかぼんやりしているのだ。
親リーを受けて、一か八かの選択をして、
後悔している、ということ。
一発裏のない、競技ルール。
親の先制リーチを受けて、
二三四四五六③④⑤⑤⑥567
四が入ってこのようなテンパイだったと思う。
こんな形だったと思う。
というか、こんな色だった、と思う。
ドラは④
親のリーチはその捨て牌が
「おいら、ピンズ待ちだよ!」
と語り掛けてくるくらいピンズ本線。
そこにこのテンパイ。
親上家の捨て牌に②と⑤が飛んでいる。
二三四四五六③④⑤⑤⑥567
親の河には⑧が切られているので
③④⑤⑥⑦
こんなテンパイはない。
両面であるとしたなら、
③④
これだ。
親のリーチはピンズが高すぎるから
手の内にピンズ1メンツってことはないだろう。
ということは、複合系で組まれやすいのは
②⑤ピンではなく、③⑥ピンだ。
親には、たぶん③⑥のほうが
②⑤ピンより6割くらい危険に見える。
そして、単純枚数では、③⑥待ちのほうが多い。
③⑥⑨のスジをフォローできるってよくね?
親番も残っているし。
リーチ!
わたしは、偉そうに無スジの⑤を親リーチに切る。
一瞬、なんだか、ものすごくいけないことをしてる気がした。
けれど、危険牌を切る楽しさが
身体を完全に支配していた。
「こういうギリギリの牌を通すこと、楽しいっす!」と。
結果、親リーチの待ちは③⑥⑨
私の2分の1の選択は、正解・・。?
いや、違う。
違うだろ!
思考そのものが、間違っている。
おいら、ピンズ待ちだす!
というくらいピンズが危険なリーチに
ピンズを切ることはおかしい。
ピンズが危険!ということは?
とと思考が繋がらないことがおかしい。
楽しさにおぼれて、楽をしている。
今までなら、③⑥も、⑤も切ることはないだろう。
二三四四五六③④⑤⑤⑥567
これまでなら、安全なソーズに手をかけている。
7ソウに手をかけているだろう。
理由は
③⑥を切るか、⑤を切るか、
その選択がしっかり精査できていない。
そんな牌を切ってはいけない。
ソーズは通っている。
だから、ソーズを雀頭に求めて
二三四四五六③④⑤⑤⑥55
二三四四五六③④⑤⑤⑥66
二三四四五六③④⑤⑤⑥77
このツモパネリーチを打つ。
(結果論だけれど、実戦では5ソウをひき、
親リーチから④が出ている。)
もしくは、ソーズを全部払って
ピンズ総受の応手でもよい。
そういう麻雀を目指して
そういう麻雀を打ってきたはずなのに。
そういう麻雀がつらくて
「楽しかった」はずなのに。
楽をしている。
2分の1の選択を、「選択すること」は
勇気ではない。
それ以外の選択肢を持とうとしない
第3の選択肢を考えない楽な思考だ。
「それでいい」と思っている。
「それでいい」では済まないから
麻雀は魅力的なのだ。
自分の麻雀は、
「説明のつかない納得のできない牌を切らない」こと。
それに「矛盾」している地点で
自分にとって、お話にならないのだ。
納得できていないときには、
実のところ、言い訳が並ぶ。
この時自分は、ピンズを我慢する努力の方向を
少しも見やることなく
⑤で振り込んだ時の「言い訳」を考えていた。
言い訳の必要な「勇気」があろうものか。
本当の勇気は、この刹那のテンパイを我慢して
その先の未来を見つめることだ。
そうでなければ、重くならない。
行き当たりばったりの
吹けば飛ぶような麻雀しか打てない。
楽しい、けれど、寂しい麻雀、ではなく
苦しい、けれど、満足のゆく麻雀を。
2020-03-02 19:17
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